2099年12月31日

ようこそ、イングランド啓蒙研究会のウェブサイトへ

ようこそ、イングランド啓蒙研究会のウェブサイトへ。

このウェブサイトは、17世紀イングランド発祥の啓蒙思想の研究および、この啓蒙運動のヨーロッパ/北米/日本への伝播・発展についての研究を促進し、広く発信することを目的としています。

従来の哲学/政治学/経済学/宗教思想といった垣根を超え、現代に至るイングランド啓蒙思想運動の大河を究明していくのが、本研究会の狙いです。

2019年5月ウェブサイト開設



2024年3月6日

第34回研究会の報告

第34回イングランド啓蒙研究会

2024/03/03 国際基督教大学 トロイヤー記念アーツ・サイエンス館

 

報告者  柏崎正憲(早稲田大学ほか非常勤)、青木滋之(中央大学)

 

 今回は、出版に向けて準備している『啓蒙主義に先立つ啓蒙』の序論、第一部の小序についての検討を行った。序論では、1.イングランドに啓蒙はあったか、1.1イングランド啓蒙の回顧的発見、1.2啓蒙主義と複数形の啓蒙、1.3啓蒙主義に先立つ啓蒙、の箇所を通覧した上で、参加メンバーから様々な議論や提案がなされた。第一部の小序は、キーワードである「実験性・経験性」をめぐる原稿が読まれたあと、同様にメンバーから様々な指摘があった。

 序論については、「冒頭にサマリーを入れたらどうか」「もっとスリムにしたらどうか。また、登場する論者が多いので、相関図を入れた方がよい」といった指摘がなされたほか、第一部小序については、「ベーコンの経験主義批判はロックの経験主義と整合的なのか」や、「実験性から経験性へのつながりが不明瞭だ」といった指摘がなされた。

 これらの指摘や批判をふまえ、原稿を推敲した上で完全原稿を揃える日程を確認し、具体的にどの出版社に掛け合うかといった話にまで、話題は及んだ。


 会場となったICUのトロイヤー記念アーツ・サイエンス館は完成されたばかりで、モダンなつくりの素敵な建物でした。また、ここで集まって研究会を行いたいです!

 

 

 

2023年11月7日

第33回研究会の報告

 

第33回イングランド啓蒙研究会

2023/10/22 中央大学八王子キャンパス(ハイブリッド)

 

 今年度に採択された新たな科研費研究課題「イングランド啓蒙の思想史的意義――拡散性とその受容の学際的研究」における各メンバーの研究計画をたがいに報告した。イングランド啓蒙の「拡散性」および受容の過程に焦点を当てるために、さまざまな研究のアイデアが提起された。

  • 社会契約論の継承と断絶
  • 実験哲学のアイルランド、スコットランドへの伝播
  • イングランド自然神学の伝統
  • 理神論とアングリカン思想との比較分析
  • ケンブリッジ・プラトニストと大陸哲学者との関係
  • イングランド啓蒙における「愛」の思想と「ケアの倫理」の接点
  • ロック経験論からフランス唯物論へ 等々

 



2023年8月4日

第32回研究会の報告

 

第32回イングランド啓蒙研究会

2023/7/28 中央大学後楽園キャンパス(ハイブリッド開催)

 

【合評会】梅垣千尋「18世紀末の女性思想家たちにとっての「啓蒙」――ウルストンクラフト、モア、バーボールドのロック受容を手がかりに」

 

評者  柏崎正憲(早稲田大学ほか非常勤)、青木滋之(中央大学)

応答者 梅垣千尋(青山学院大学)

 

 目下編集中の論集『 啓蒙主義に先立つ啓蒙――イングランド啓蒙への学際的アプローチ』 (仮)のための寄稿依頼に応じてくれた、梅垣千尋さんの論文「18世紀末の女性思想家たちにとっての「啓蒙」――ウルストンクラフト、モア、バーボールドのロック受容を手がかりに」の合評会をおこなった。

  同論文は「女性にとって、「啓蒙」とはどのような経験であったのか」という問いに答えるために、enlighten という語がフランス革命勃発後、女性思想家たちのあいだでも多く使われるようになったことを考慮しつつ、ウルストンクラフト(Mary Wollstonecraft)、モア(Hannah More)、バーボールド(Anna L. Barbauld)の三者におけるジョン・ロックの受容を考察し、彼女らの三者三様の啓蒙思想、啓蒙観を浮かび上がらせている。そのさい著者は、啓蒙という語にかんする「現代の恣意的な定義をいったん学び落とすことで初めて見えてくる当時の人びとの地平」に迫ろうとしている。

 評者の柏崎および青木は、梅垣論文の意義として、女性の権利・地位をめぐる啓蒙の両義性がいかに女性思想家たち自身にも影響したかに光を当てた点や、enlighten の用法を詳しく調べることにより、ある思想が本来の意図をこえて後続世代により利用されていく過程を浮き彫りにした点を、とくに高く評価した。

 そのうえで、評者2名はいくつかの質問を投げかけた。「ウルストンクラフトが普遍主義的な、モアが差異主義的な立場から女性の権利を擁護しているとして、バーボルドの立場はどう特徴づけられるか」や「どういう意味でロックは社会契約のなかに家父長制を混入させていると言えるか」といった問いである。梅垣さんからは、バーボールドの議論の非体系性やヒュームとの近さ(convention や social virtue の重視)、議論の前提に置かれる大きな概念としての「家父長制」から距離をとりつつ当時の女性思想家たちの言葉づかいに寄り添うというアプローチ、等々について、示唆に富む返答をいただいた。

 ひきつづき他の参加者からも質問や論点提起があった。ハナ・モアの保守的な女性論を啓蒙的と呼びうるかどうか(女性の劣位にかんするキリスト教の伝統的観念を逆手にとる彼女の議論の性格をどう規定すべきか)、ウルストンクラフトとモアは対極的なようでいて反ルソー陣営としては共通性があるのではないか、等々、興味深い論点をめぐって議論が盛り上がった。

 


   



2023年5月28日

第31回研究会の報告

 

第31回イングランド啓蒙研究会

2023/5/14 オンライン

 

 報告者: 青木滋之、柏崎正憲、武井敬亮

 論集『啓蒙主義に先立つ啓蒙――イングランド啓蒙への学際的アプローチ』(仮)について、あらかじめメンバーから原稿を集めたうえで、編集者三名が執筆状況の報告および論集の構成の提案をおこなった。

 本論集は三つの部に分かれるが、当初は第1部「平明性・実験性」、第2部「自律性・自立性」、第3部「多元性・寛容性」という標題を考えていたところ、できあがった原稿を検討したうえで、とくに第1部と第3部は標題の変更を検討することにした。第2部についても、構成(論文の順序)を変更することなどを決めた。

  向こう数か月のあいだに編集作業を完了することが目標である。


 その後、今後の共同研究の進め方、とくに向こう一年の方針について討議した。

 なお、これまで本研究会の財源となっていた科研費研究課題「イングランド啓蒙への学際的アプローチ――「開かれた理性」の復権を目指して」は2022年度で終了したが、しかし2023年度から4年間の新たな研究課題「イングランド啓蒙の思想史的意義――拡散性とその受容の学際的研究」が幸運にも採択された。

 


 

 

2023年5月11日

第30回研究会の報告

 

 

第30回イングランド啓蒙研究会

2023/3/16 福岡大学

 

 報告者:内坂翼、青木滋之

 

1. 内坂報告

 近年の啓蒙研究の諸側面を考察することを目的に、ジョナサン・イスラエル『精神の革命:急進的啓蒙と近代民主主義の知的起源』(2017年、森村敏己訳、みすず書房)と、その原典である Jonathan Israel, A Revolution Of The Mind: Radical Enlightenment and the Intellectual Origins of Modernity (New Jersey: Princeton University Press, 2010) の内容を検討した。

 訳者のまとめにあるように、「イスラエルの啓蒙解釈の特徴は、啓蒙の担い手を急進派と穏健派に区別し、啓蒙時代の思想闘争を急進的啓蒙と穏健な啓蒙、および反啓蒙という三つの勢力による争いと位置づけたうえで、自由、平等、民主主義、政教分離、人権といった『普遍的な』価値を確立したのはもっぱら急進的啓蒙だと論じた点にある」(本書:237頁)。穏健な啓蒙思想家として、ジョン・ロック、デイヴィッド・ヒューム、アダム・スミス、アダム・ファーガスン、ヴォルテール、イマヌエル・カント、チュルゴなどの思想家が批判される一方で、反啓蒙思想家としてジャン=ジャック・ルソーの思想が論じられる。また、バールーフ・デ・スピノザとピエール・ベールのオランダ急進思想を源流とする一八世紀の急進的啓蒙思想家の議論が、近代の普遍的価値の土台としての「精神の革命」を引き起こした歴史的流れが記述される。急進的啓蒙思想家として、リチャード・プライス、ジョゼフ・プリーストリ、ウィリアム・ゴドウィン、メアリ・ウルストンクラフト、トマス・ペイン、ディドロ、ドルバック、エルヴェシウス、コンドルセ侯爵、レッシング、ヘルダーなどの思想が詳細に検討されている。

 各章のタイトルは以下のとおり。

 I. 進歩および世界の改良をめぐる啓蒙の路線対立 Progress and the Enlightenment’s Two Confliction Ways of Improving the World.

 II. 民主主義か社会階層制 — 政治的断絶 Democracy or Social Hierarchy?: The Political Rift.

 III. 平等と不平等の問題 — 経済学の台頭 The Problem of Equality and Inequality: The Rise f Economics.

 IV. 啓蒙による戦争批判と『永久平和』の探求 The Enlightenment’s Critique of War and the Quest for “Perpetual Peace”

 V. ヴォルテールとスピノザ — 啓蒙が示す哲学体系の基本的二元性 Voltaire versus Spinoza: The Enlightenment as a Basic Duality of Philosophical Systems」である。

 研究会では、(a) 穏健な啓蒙思想に対する否定的評価への批判、(b) 啓蒙にキリスト教が寄与した側面の軽視への批判、(c) 急進派と穏健派という分類自体への疑念、(d) スピノザの著作が当時の急進派の思想に与えた影響の妥当性への疑問、(e) 「急進(radical)」という形容詞を現代的視点(自由、平等、民主主義、政教分離、人権といった『普遍的な』価値を重視する視点)から遡及的に歴史を評価する際に使用していることへの批判、などのテーマが議論された。 


2. 青木報告

John Roberson, The Case for the Enlightenment : Scotland and Naples 1680-1760, New York: Cambridge University Press, 2005 の内容報告

 「啓蒙主義」をめぐる研究で近年1つの大きなテーマとなっているのは、啓蒙主義というのが、定冠詞つき大文字の the Enlightenmentであるのか、それとも不定冠詞のan enlightenment(あるいは複数形のenlightenments)であるのか、という問題である。これは、1960年代のピーター・ゲイの啓蒙主義研究の辺りから、表立ったテーマであれ裏テーマであれ、常に啓蒙主義研究の底流にあり続けてきた問題である。現代社会では、民主主義や自由といった価値がグローバルスタンダードであるのか、が一つの重要な論点になっているが(その顕著な例が、ロシアによるウクライナ侵攻であろう)、この論点の思想史研究でのヴァージョンが、定冠詞/不定冠詞の啓蒙主義の問題圏、ということになるだろう。

 本書、John Roberson, The Case for the Enlightenment : Scotland and Naples 1680-1760, New York: Cambridge University Press, 2005 を第30回研究会で取り上げた理由は、同じ著者のジョン・ロバートソン『啓蒙とはなにか(2019 [原著2015])』の訳者解説に、「近年の啓蒙研究が細分化し、啓蒙が複数のものに分化して研究されている現状に対して、改めて一つの啓蒙を主張する著作である」とあり、現代を代表する「定冠詞つき大文字の the Enlightenment」の浩瀚なる研究であると思われたからである。今回の発表は、この著作がどのようなものかを紹介するものであった。

 ロバートソンは、現代の啓蒙研究が「断片的な啓蒙主義 fragmented Enlightenment」研究に陥っていることを嘆きつつ、the Enlightenment を標榜する先行研究として、Robert Darnton, Jonathan Israel を挙げる。しかし、ロバートソンは、両者の研究に満足しない。特にイズラエルの主張、18世紀に先立つ17世紀のラディカル啓蒙主義により「1740年代終わりには、大事な仕事はすでに終わっていた」というテーゼには与しない。そうではなく、1740s以降の定冠詞つきの啓蒙主義 the Enlightenment に特徴的であるのは、来世の存在/非存在に関わりなく、「現世をより良くすること betterment in this world」に新しくフォーカスされていったことだったと指摘する。

 この「現世改革」を標榜する啓蒙主義において重要なのは、ホッブズ、ガッサンディ、ベール、ヒュームといった思想家たちである。その核は、ラディカル啓蒙主義が主張するスピノザ主義ではなく、アウグスティヌス派とエピクロス派の思想潮流が、1680年代以降に収束していった点にあった。それをロバートソンは、スコットランドとナポリというヨーロッパの両端とも言える場所に位置する二つの都市の比較手法によって明らかにしようとする。本書を書くきっかけになったエピソードが本書の冒頭に記されているが、イタリアのバジリカータ州と、スコットランドのハイランド地方の風景が似ていることに驚かされたと、ロバートソンは、述べている。

 研究会では、ロバートソンが述べる、定冠詞つき大文字の啓蒙主義/不定冠詞つき複数形の啓蒙主義の対立という問題点が議論されたほか、アウグスティヌス派やエピクロス派の内実とは何であったのかといった質問が取り上げられた。



2023年1月6日

第29回研究会の報告

 

第29回イングランド啓蒙研究会

2022/11/20 中央大学

 

 社会思想史学会の第47回大会(専修大学、10月15日午前)でおこなった本研究会のセッション報告「イングランド啓蒙への視角――平明性、自律性、寛容性」をふまえて、同セッションの報告者三名が、論文集の全体的な構想および各部の構成にかんする草稿を発表した。

 報告者: 青木滋之、  武井敬亮、柏崎正憲


 1.論集の標題: メンバー沼尾恵の発案を受けて『啓蒙主義に先立つ啓蒙——イングランド啓蒙への学際的アプローチ』という仮題を考えている。

 

 2.論集の構想: イングランド啓蒙という研究分野がなぜ成立するか、その研究にはどんな意義があるかについて論じられた、論集の序論にあたる文章の草稿を発表。 

 【武井報告】 イングランド啓蒙という主題は、近年の研究における伝統的啓蒙観の見直し、とくに啓蒙の複数性が前提とされるようになったことの一帰結である。イングランドという場で一つの主軸をなしたのは、宗教的熱狂に対する世俗的権威および個人の保障を問題にしたアングリカンと、この問いに対して別な回答を提示した理神論者との対立である。

 【青木報告】 啓蒙の語義の拡散を避けるため、単数形のthe Enlightenmentに、人間の現世的境遇のよりよい理解と改善とを目指した「18世紀に特徴的な知的運動」(John Robertson)に照準を絞ることは、一つの方法ではある。しかし、思想史のみならず社会史の研究成果をふまえつつ、啓蒙を「より幅広い知の発酵現象」(Roy Porter)として、またしたがって複数形のenlightenmentsとして捉えるならば、そのなかにはロックやトーランドのような思想家も「プレ啓蒙」ではなく啓蒙の一要素として含められるはずである。
  


 3.各部の構成: 論集は「平明性、自律性、寛容性」をそれぞれ標題にかかげた三部構成にすることを計画している。各部の導入にあたる文章の草稿を発表。

  【青木報告】 経験と「記述的で平明な方法」による真理への接近を旨とする「実験哲学の精神」の生成と展開を、「啓蒙」という標語以前の啓蒙的運動として見るべきこと。イングランドの王立協会からジョン・ロック『人間知性論』をへてダブリン哲学協会にいたるまでの概観。

 【柏崎報告】 人間の知的自立と道徳的自律とを、カントにいたる啓蒙思想家たちに先駆けて基礎づけたのがジョン・ロックである。かれの哲学および政治学に触発されながら、すでに17世紀末のイングランドにおいて、宗教的および政治的な啓蒙のムーブメントがトーランドおよびモリニューとともに始まっていること。

 【武井報告】 イングランド啓蒙における保守的・アングリカン的な主題であった宗教的熱狂を、理神論者のアンソニー・コリンズもまた強く意識しており、それゆえに自由思想こそが寛容を促すという議論を展開したこと。このような理神論の展開に、イングランド啓蒙の特徴的要素としての寛容性の発展を見ることができること。




2022年10月2日

第28回研究会の報告

 

第28回イングランド啓蒙研究会

2022/9/25 オンライン

 

 社会思想史学会の第47回大会(専修大学)で、10月15日(土)午前に、本研究会が「イングランド啓蒙」にかんするセッション報告をおこなう。論文集の公刊という目標を念頭におきつつ、イングランドにおける啓蒙とは何であったか、本研究会はいかにしてそれにアプローチしようとしているかということを提示することが狙いである。

 大会概要(社会思想史学会ウェブサイト http://shst.jp/home/conference

 

 この日の研究会では、報告者3名が、社会思想史学会でのセッション報告の草案を発表し、他のメンバーから意見をもらった。

 セッション報告の要旨を、以下に掲載する。

 


 

イングランド啓蒙への視角――平明性、自律性、寛容性

[世話人・司会] 柏崎正憲(早稲田大学・非常勤)
[報告者] 青木滋之(中央大学・非会員)、武井敬亮(福岡大学・非会員)、柏崎正憲
[討論者] 沼尾恵(慶応義塾大学・非会員)

 イングランド啓蒙研究会は、2018年6月に発足し、2019年度からは科研費研究課題にも採択され、精力的に研究活動を続けている(ウェブサイトはhttps://english-enlightenment-f-j.blogspot.com)。社会思想史学会においては、2019年大会でも「イングランド啓蒙における理性行使の徹底化」と題したセッション報告をおこなったが、今回のセッションでは、本研究会の主題それ自体にかかわる基本的な問いを提起したい。すなわち、イングランド啓蒙とはそもそも何か、そう呼ばれるべき思想の特徴や思想家群をどう識別すべきか、イングランド啓蒙なる研究分野は成立しうるのか、という問題である。

 「スコットランド啓蒙に比べてイングランド啓蒙は研究者の間で合意がない」とは、2017年大会のセッション報告にもとづく改稿論文での田中秀夫氏のコメントである(愛知学院大学『経済学研究』第5巻第2号所収)。たしかに、イングランドが初期啓蒙の舞台や啓蒙思想の源泉であったと主張しても反論されないだろうが、イングランド啓蒙が「何であるか」とか「いつはじまったか」とかを決めようとするやいなや、意見は割れるだろう。混乱を避けるためには、まず何を啓蒙と呼ぶかについて合意に至るべきだが、そのこと自体が容易ではない。理性や急進主義といったフランス啓蒙寄りのキーワードによっても、保守的啓蒙などの代案によっても、イングランド啓蒙なるものの特徴を部分的にしか描きえないからである。田中氏が提案したように、その「主流」が「急進」から「保守反動」、再度の「急進」から「穏健」、「保守」へと推移したこと自体に、その特徴を見出すべきかもしれない。

 だが、イングランド啓蒙の「主流」と呼びうるものが何かを見定めるためにすら、なすべきことはまだ多いだろう。本研究会は、共同研究の強みを生かして、多様な専攻分野、多様な視点から、多様な題材にそくして、学際的にイングランドの思想潮流に迫ろうとしている。メンバーの多くが名誉革命以降、ロックと彼以降に照準を合わせていることは否定できないが、しかしモア、フッカー、フィルマー、カドワース等を扱おうとしているメンバーもいる。イングランド啓蒙と呼びうる思想運動の担い手だけでなく、その源泉や敵対者などとして位置づけられるべきかもしれない思想家をも視野に収めているのである。

 本研究会は、イングランド啓蒙が何であるかをはっきり示そうとする志をもつと同時に、それを複数形のenlightenmentsとして把握すべきものと想定している。イングランドという固有名詞は、思想家たちの共通要素を指し示すためというよりも、思想運動の生成および越境のプロセスを際立たせるための呼称である。別言すれば、啓蒙を特徴づける諸理念のいくつかの形成と伝播を説明するためには、思想形成の固有の「場」(Cf. Peter Harrison, ‘Religion’ and the Religions in the English Enlightenment, 1990)としてのイングランドを参照すべきなのである。ただし、この「場」に立ち現れる諸理念や諸言説を、雑然と並べることで事足れりとするつもりはない。イングランド啓蒙を描き出すために本研究会が選んだ三つのキーワードが、平明性、自律性、そして寛容性である。


 

2022年10月1日

第27回研究会の報告

 

第27回イングランド啓蒙研究会

2022/7/24 福岡大学

論文集の原稿準備のため、以下の2名が研究発表を行った。


内坂翼「イングランド啓蒙における自由論の展開」

 イングランドの哲学者ジョン・ロック(John Lock, 1632-1704)は、「理性と判断力を備えた自由な行為者」という近代的人間像を打ち出し、「啓蒙の偉大な先駆者」 (the Enlightenment’s great progenitor)という位置づけを与えられてきた。チャールズ・テイラー(Charles Taylor)が『自我の源泉——近代的アイデンティティの形成 Sources of the Self: The Making of the Modern identity 』で論じているように、ロックが「啓蒙の偉大な教師」となったのは、新たな学知を自我の理性的制御という理論と絡めた上で、理性的な自己責任という理念のもとに、これら二つを統合したからである 。テイラーによれば、自己に対して距離を置いた規律ある態度を強調するロック的な人間像が強い影響力を及ぼし、啓蒙期には軍や病院や学校において官僚的支配や厳密な組織化が進み、規律的な実践が広範囲に発生したのである。

 本発表では、『人間知性論 An Essay Concerning Human Understanding』(1689) の中で「最も複雑な、難解な、かつ重要な章」 であるとされる第二巻第二十一章「力について Of Power」に焦点を当てた。初版において、「自由Liberty」とは障害が欠如した状態で行為者が意志した行為を決定する力であり、意志の選択は「善の外観the appearance of Good」あるいは「より大きい見かけ上の善the greater apparent Good」に左右される、とロックは論じていた。しかし、第二版でこの章は大幅に改訂され、初版で47節あった章が第二版で73節にまで増えて内容も一新されることとなる。

 第二版の改訂において、ロックは「落ち着かなさ」(Uneasiness)、「保留」(Suspension)、「検討」(Examination)、「判断」(Judgement)という視点を導入し、道徳的責任を自己決定の能力と結びつけた。要約すれば、「自由の目的と使用」とは、こうした欲望や落ち着かなさを保留した上で、次の三段階の過程に基づいた判断をすることとなる。(a)まず差し迫った落ち着かなさや眼前の願望をいったん保留し、意志の決定や行為からそれを遠ざける。(b)次に、長期的視点からの幸福あるいは遠くの善を見据えた上で、知性が他の選択肢を比較検討し熟慮する。(c)目の前にある落ち着かなさや欲望を統御し熟慮した上で、行為者の善を最大化する行為を判断する。

 報告に対する応答や質疑では、ロックの自由論の執筆意図や改訂意図を探るための書簡研究や『人間知性論』草稿研究の必要性、ロックの自由論改訂に影響を与えたとみられるカドワースの自由論草稿とのさらなる詳細な比較検討の必要性、自由論とイングランド啓蒙の関係などが議論の対象となった。



田子山 和歌子「啓蒙時代以前の光 リチャード・フッカーにおける理性主義」

 イングランド啓蒙の特質である〈理性主義〉とはどんなものだったか。

 この問題の考察の一環として、本発表では、イングランド啓蒙の源泉のひとつと思われる、アングリカニズム(イングランド国教会主義、英国教会主義ともいわれる)に焦点を当て見ていった。なかでも、本発表が中心としたのは、アングリカニズムの立役者のひとりである、16世紀末の思想家リチャード・フッカーの〈理性主義〉を、同時代のピューリタンの啓示・聖書主義と比較しつつ見ていくことである。それは、フッカーの場合も、近代の啓蒙主義の場合も、おなじく〈理性主義〉を掲げていながらも、啓示・聖書主義にどう対峙するかによってかなりの差があるからにほかならない。

 結論から言えば、近代啓蒙主義における理性は、啓示や聖書といった、理性を超えた超自然的・神秘的な真理を、〈批判〉することによって、自らに対立する非合理的なものとして排除するが、フッカーにおける理性は、啓示・聖書を〈批判〉対象にすることはなく、啓示・聖書を排除することはない。むしろ、フッカーにおいて、理性と啓示・聖書は〈補完〉ないしは〈受容〉関係にある。それは、フッカーにおいて、理性は、神秘的領域という真理も受け入れるほどの広大な真理受容機能をもつことで、理性は、聖書や啓示を孤立した知の体系として排除することなく、聖書や啓示と補完しあうことで、聖書や啓示を知のネットワークの一環として取り込んでいく傾向を持つのである。

 本発表では、こうしたフッカーの理性観の特徴を、フッカーと同時代の、おなじくアングリカニズムを支えた一翼であった、ピューリタンの啓示・聖書主義とも対比することで明らかにした。

 ピューリタンの啓示・聖書主義においては、理性は排除されるべきものであり、フッカーと対照的だった。しかしながら、このように対照的な関係にありながらも、フッカーの理性主義は、一方で、ピューリタンの啓示・聖書主義と、共通の人間観、すなわち、人間は完全に堕落しており、理性も無力であることから、人間は決して自力では救済が望めないのだとする、アウグスティヌス以来の〈全的堕落〉の人間観を共有していたのである。聖書や啓示のような神秘的真理も、すべて受容して、知のネットワークの一環として取り込んでいくのだとする、フッカーの〈理性主義〉も、そのような真理を自力では推論を通じて把握することはできないという、理性の無力を認めたところからでてくるものだからである。

 このようにフッカーの理性主義は、同時代のピューリタンの啓示・聖書主義と対照的な関係にありながらも、一方で、理性と啓示、自然と恩寵といった問題意識を共有しつつ、アングリカニズムをともに形成していったといえる。

 こうしたアングリカニズムの観点は、イングランド啓蒙の特質を見るうえでも、また、イングランド啓蒙と従来の近代啓蒙主義との関連を見るうえでも、欠かせないものとなろう。なぜなら、理性と啓示、自然と恩寵という問題は、アングリカニズムにも、イングランド啓蒙においても、途切れることなく流れているからである。

 イングランド啓蒙につらなる諸思想家からすれば、それぞれにとって理性とはどのようなものだったか、あるいは、啓示・聖書とはどのようなものだったか。これらを見るうえで、アングリカニズムの二大潮流である、ピューリタンの啓示・聖書主義と、フッカーの理性主義は、おおきな参照枠になることはたしかである。すくなくとも、イングランド啓蒙の姿を、洞窟の中に浮かぶ影のように浮かび上がらせる〈光〉になるのではあるまいかと、期待されるのである。



2022年5月17日

第26回研究会の報告


第26回イングランド啓蒙研究会

2022/5/15 オンライン

論文集の原稿準備のため、以下の3名が研究発表を行った。


小城拓理「フィルマーの契約論批判再考」

 一般的にはフィルマーの政治理論は王権神授説と家父長主義の結合とされてきた。つまり、フィルマーの政治理論とは神がアダムに全世界を支配する権力を与え、それが代々家父長に継承され、国王の権力に繋がるというものである。そして、このようなフィルマーはロックによって論駁されたと考えられてきた。確かに、以上のようなフィルマー自身の政治理論は思想史的にはともかく、今日では顧みる価値は無いかもしれない。実際、第二次世界大戦後にフィルマーの著作集を校訂したラズレットもサマヴィルもそのように考えているように見受けられる。

 しかし、フィルマーの主張は多岐に渡っており、その一つである契約論批判の現代的意義を強調する研究もある。そこで、本報告はフィルマーの契約論批判を整理した上で、これに対してロックがどのように応答したかを確認することを目的とした。

 本報告の前半ではフィルマーの契約論批判が整理された。フィルマーの契約論批判は二つに大別できる。第一に同意論批判である。これには二つあった。第一に同意の歴史的実在性に対する批判である。つまり、歴史的に見て同意など存在しないという批判である。

 第二に暗黙の同意に対する批判である。これは、暗黙の同意はどんな統治も正当化してしまうという批判である。フィルマーの契約論批判の二つ目は民主政批判と呼ぶべきものである。これも二つあった。第一に多数決批判である。フィルマーは多数決を否定する。というのも、生まれつき自由な人間によって形成される社会で何かを決定する際には全会一致しかありえないからである。第二に抵抗権批判である。フィルマーに言わせれば抵抗権を容認することはアナーキーを招来する。さらに、人間の自由を前提にすれば同意の拒否や撤回を認めることになり、これもまたアナーキーを招来する。

 本報告の後半では以上のフィルマーの契約論批判に対するロックの応答を見た。まず、同意論批判のうち第一の批判に対してロックは同意によって成立した統治の実例を枚挙する一方、事実と規範とを峻別することで退けようとしていた。続いて第二の批判に対してロックは、同意の与え方と同意内容が自然法の規制を受けることを示すことで反論していた。つまり、自然法を前提にする限り暗黙の同意は統治のデ・ファクトな正当化論には陥らないのである。次に民主政批判に対する応答である。

 第一の多数決批判に対しては、ロックは多数決の必要性を強調する一方で、最初の同意内容に多数決の受け入れを盛り込むことで正当化していた。第二の抵抗権批判では統治と社会を区別することでフィルマーに応じていた。さらに、人間の生来の自由を前提にしたとしてもフィルマーが懸念するようなことにはならない。というのも、加入を拒否する独立人であったとしても自然法を遵守する義務があるからである。また、離脱の自由に関しては社会に加入する際の最初の同意内容によってこれを認めないことでロックは対処できる。

 このように見ると、『統治二論』第二篇もまたフィルマーを意識したものであったことが理解できるだろう。そして、以上のようなロックの応答がフィルマーの批判を本当に克服できているかどうかを探ることは我々の課題として残されている。


沼尾恵「ロックとヴォルテールの寛容論の比較」

 本報告は、ロックとヴォルテールの寛容論の比較をとおして、イングランド啓蒙の実態の一断面を明らかにしようとする試みが、いかなる前提のもとに成り立っているもので、またいかなる意義をもつものなのか検証した。一見わかりやすい比較が、実はいくつものことを前提としており、結果、比較の意義が限定的なものにな ってしまうという懸念があることを議論した。

 たとえば、ロックとヴォルテールを比較するということは、両者がなんらかの形でイングランド啓蒙とフランス啓蒙をそれぞれ代表できる思想家であるということを前提としており、言いかえれば、ロックとヴォルテールをみることによってそれぞれの啓蒙の特徴をなにかしらはつかめるということを前提としていることである。これは、明らかにすべきイングランド啓蒙の実態になにかしらのイングランド啓蒙観を持ち込んでいることを意味している。それでは、そうしたイングランド啓蒙観はいかなるもので、いかなる正当性があるのか。こうした観点は、プロジェクトのメンバー間でどの程度共有しており、共有すべきものなのか。こうした疑問を挙げた。

 つぎにロックとヴォルテールの比較において、いかなる観点を採用できるのか検討した。ロックなど初期の啓蒙思想家たちが寛容論を理論化し、フランスの啓蒙思想家たちは寛容を理論化するというよりそれを広めることに力を注いだという活動の違いという観点をまずとりあげた。その後、啓蒙の布教活動的観点だけではなく寛容概念の違いに注目した理論的観点の検討もおこなった。結論としては、活動的な違いというテーゼに近い結論にいたった。

 こうした結果を受け、いかにすればイングランド啓蒙の特徴がわかるのかという方法についての議論ではなく、内容に踏み込んだものがよりふさわしいという意識から、あらためてロックとヴォルテールの比較の意義がどの程度あるのか問い、同時に比較をともわないロックの寛容論の解説に、どれだけの意義があるのか、他のロックの解説書との差別化の方法について検討した。

 


青木滋之「イングランド啓蒙」に賛成/反対の二次文献の紹介

 「イングランド啓蒙」と(後世から)呼ぶことのできる啓蒙活動の運動があったのかについて、「イングランド啓蒙」(あるいは「ブリテン啓蒙」)という言葉を広めた元ネタである Roy Porter, Enlightenment: Britain and the Creation of the Modern World, 2000 を中心に、ポーターの他の著作、Very Short Introduction シリーズの一冊であるロバートソン、近著の生越を取り上げた。

 ポーターによれば、啓蒙主義を考えるにあたって、フランスのフィロゾーフを中心に展開され、フランス革命で頂点を迎えたとされる the Enlightenment ではなく、不定冠詞の複数形である enlightenments を考えなければならない。とりわけ、モンテスキュー、ヴォルテールといった啓蒙主義を代表する思想の背景には、コーヒーハウスでの自由闊達な議論を起点としたイングランドでの草の根運動があったことが重要であるとポーターは指摘する(20年前のポーターの著作だけでなく、近著の M.Jacob, The Secular Enlightenment, 2019 などもこうした見解を共有しているように思える)。とくに、18世紀の始めの1/3は、イングランドの思想家による書き物や活動が実質的に支配的であり、ここを発信源として啓蒙主義の運動はスコットランドやフランスに広まっていったのだから、English Enlightenment = British Enlightenment と言い切ってもよいのではないか、とまでポーターは主張している。

 こうしたポーターの見解に対して、ロバートソンは「そうした緩い定義を採用すると、あれも啓蒙、これも啓蒙」といった状態になりよくない、the Enlightenment を中軸に据えて議論しないといけない、と主張する。ここには、啓蒙主義を不定冠詞で考えるべきか、定冠詞で考えるべきか、という括り方の問題がある。

 研究会でも、下川教授から、イングランドとスコットランドを一緒くたにする議論は乱暴で受け入れられない、という指摘があった。ポーターの「ブリテン啓蒙」には、スコットランド啓蒙の研究者からの反論もある。しかし生越は、近著において「評価の違いはあるものの、イングランドにおいて「理性の自由な使用」、「専制権力からの解放と政治的自由の実現」、「宗教的寛容」という、啓蒙の三要件が最初に実現したのは事実であり、これを「プレ啓蒙」「初期啓蒙」「イングランド啓蒙」ないし「ブリテン啓蒙」と呼ぶかどうかは別として、啓蒙の始まりとみなすことに誰も反対しないだろう」と指摘する。発表者である私も、こうして見解を共有するものである。