第38回研究会の報告
講演会 「啓蒙」の複雑性と逸脱性を考えるために
ディドロ『ダランベールの夢』における「補遺」と〈フィクション化〉を読む
田口卓臣(中央大学文学部)
2025年 4月12日(土) 中央大学多摩キャンパス
この日の講演で田口さんは、ディドロを題材に、「啓蒙」を「画一的・目的論的な解釈図式から常にすでに逃れ去る思想運動」として捉える試みを提示してくださった。約20名が参加し、講演のあとにはたいへん活気ある質疑応答がおこなわれた。啓発的かつスリリングな田口さんの講演の概要は、次のとおりである。
講演の趣旨は、後期ディドロの代表作『ダランベールの夢』を取り上げ、フィクションを介して「哲学」を語るというその複雑な方法に着目することで、同書を「啓蒙」の複数性と逸脱性を物語る恰好の事例として示すことであった。
単数形の「光=啓蒙」(lumière)――神の啓示や超自然的認識など、目的論的で単線的な――との対比で、18世紀のフィロゾフは複数形の「光=啓蒙」(lumières)にシフトしていったが、そこにはいわば光の屈折や乱反射もあった。そのような「啓蒙=光」の複雑さや逸脱性をきわめてよく表現したのがディドロである。
ディドロは啓蒙を、自己自身と他者との双方の変容を同時に引き起こす場をつくりだすこととして実践した。それを浮かび上がらせるためには、彼がダランベールと編集した『百科全書』において「理性」だけではなく「想像力」「記憶」が重視されている点や、同書編集における「補遺」という方法――彼は不満の残る記事に編集者権限で介入し、時にとんでもなく長い「補遺」をつけたした――などに見られる。
とくに注目すべきは、フィクションを介して哲学を語るという方法である。一例として、ブーガンヴィルはタヒチ航海記の「補遺」をフィクションとして書くことで、自然人の名を借りたヨーロッパ文明の批判をパロディ的に再演し、その行為自身のヨーロッパ的性質を浮かび上がらせた。
そのようなフィクションの効果に着目して『ダランベールの夢』を読んでみる。同書は「存在の連鎖」論や「物質=運動」説(古典力学)を解体し、たとえば石にも感性があると語る(物質の運動への傾き)。分子(molécule)を流体(fluides)として捉え(分子の衝突による化学的変容への着目)、分割不能の一個体としての原子(atome)概念を批判する。そのかわりにディドロは、一なる全体=大きな個体を置く。このような思考を、彼はメタファーによるアナロジーの連鎖をつうじて推し進めていく。
以上をふまえて言えることとして、次のような観点をとることが啓蒙研究において重要である。
1 思想どうしの衝突をつうじた「化学的」変容に注目する。
2 言表行為(écriture, énonciation)の効果を読む。
3 「理性にもとづく理論の体系化」から逸脱する諸要素を読む。
4 自己形成(formation de soi)の別様の可能性を探る(ドイツ教養小説の前史としての
仏フィロゾフの文学作品)。
田口さんの講演は、大要、このようなものであった。とはいえ、これでは田口さんのお話の面白さがほとんど伝えられていない。
しかしたいへんありがたいことに、田口さん自身が講演録の公刊を準備されている。 田口さんに心より感謝を申し上げるとともに、講演録を活字で読める日を楽しみに待ちたい。