2020年3月15日

書評 Goldie 1999, Introduction to The Reception of Locke’s Politics (柏崎正憲)


Mark Goldie, Introduction to The Reception of Locke’s Politics (Vol. 1, Pickering & Chatto, 1999)
柏崎正憲 (東京外国語大学)

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 全6巻、合計2,000ページ以上にわたる、マーク・ゴルディ編集の本選集は、ロックの政治思想を批評、解説、援用、流用、非難などした、1690年代から1830年代までの80以上のテクストを、主題別に収録、紹介している。同書に登場する著者たちは、いくつもの世代から幅広く集められているのみならず、主題においても非常に多様である。公刊して間もない『統治二論』を無断引用しつつ人民の抵抗を擁護した『政治箴言集Political Aphorisms』(1690年)から、フランス革命後にロックを参照しつつ名誉革命の原理を再定義したロバート・ウォード(1838年)まで。あるいは、アイルランド議会の独立を擁護するためにロックを援用したウィリアム・モリニュー(1698年)から、ロックが人民権力を擁護していないと証明するために『統治二論』の注釈書を刊行したトマス・エルリントン(1798年)まで。1

 本選集はすでに刊行から20年以上が過ぎているし、テクストの選定と編集の方針についても問題がないわけではない。だがそれでも、ゴルディがロック政治思想の受容史の見取り図を提示したことの功績は大きい。本選集の水準をアップグレードするような類書はいまだ表れていないどころか、いまだにロック政治思想の受容過程は「復元がきわめて困難exceedingly hard to recover」だと言われている。2 そうだとすれば、本選集を紹介する価値は、今でも十分にあるだろう。本稿では、ゴルディの序論を比較的詳しく要約したうえで、ロック政治思想の受容史に迫る方法にかんする考察を加える。なおゴルディ序論のページ番号は、ローマ数字でふられているが、引用のさいにはアラビア数字に置き換える。3


1 ゴルディ序論の要約

 ロック政治思想の広範な影響、聖像としてのロック(pp. 17-20)
 ゴルディが本選集に込めた狙いは、ロックのいわばウィッグ主義的な聖像化と修正主義的な周縁化との双方を脱するために、彼の『統治二論』が「しだいに政治哲学の「古典」になっていった過程」(p. 18)を証拠づけることにある。ゴルディをまたずとも多くの研究者たちは、未公刊資料を含む豊富な一次文献により裏づけられた修正主義的研究(後述)を通過しながら、政治思想史におけるロックの重要性を新たな諸側面から解明してきた。しかしながらゴルディの序論は、パンフレットや学問的著作のみならず、記念碑、図像、風刺画など、多種多様な史料を紹介してくれる点で、今でも興味深く有益といえる。

 まずゴルディは、ロックが「啓蒙期の政治的論争のほぼすべてに巻き込まれていた」(p. 18)ことを強調する。自然法と社会契約、権力分立と国制の均衡、市民的不服従、家父長主義、宗教的寛容と教会権力、所有権など、ロック研究者になじみ深い主題に留まらず、参政権、帝国と植民地、連邦、移民、先住権、さらには初期社会主義といった、意外な主題にすらロックが結びつけられてきたことをゴルディは確認している。

 その影響力の拡大に並行して、ロックが聖像とされていった過程を、ひきつづきゴルディは豊富な事例によって提示する。1740年代、ストウ庭園にアルフレッド大王やニュートンとならんで設立されたロックの胸像。1784年、ヘヴェニンガム・ホールの図書館に、ホメロス、シェークスピア、ドライデン、ヴォルテール等とならんで飾られた、ロックの肖像メダル。晩年のロックの有名な肖像画(クネラー作)が18世紀のうちに普及したこと。ジェイムズ・トムソンやアイザック・ワッツの詩におけるロックへの賛辞。こうした作品やシンボルを実際に参照してみることも興味深いだろう。4

 ロックの脱中心化(pp. 20-30)
 19世紀半ば頃までには「ウィッグ哲学の体現者」としてのロックおよび「名誉革命の精神と教義」としての『統治二論』という評判が確立された(p. 20)。こうした正統派のロック像は、レズリー・スティーヴン、アレクサンダー・リンゼイ、ジェラルド・クラッグといった学界の重鎮たちにより、20世紀半ばまで維持される。5 ところが、1960年代末からの修正主義の潮流――ゴルディが挙げるその筆頭はもちろんダンとポーコックである――によって、ロックの存在感は「つかみどころがなく移ろいやすいelusive and fugitive」ものとなった。

 修正派の研究者たちが提起した論点を、ゴルディは七点にまとめている。

  1. ラズレットが『統治二論』校訂版(1960年)において、同書の執筆年を1679-81年と推定し、同書の文脈を名誉革命から王位排斥法危機へと位置づけなおしたこと。
  2. ロックが匿名を保ったために、彼の生前には『統治二論』の影響が限定的だったこと。
  3. 『統治二論』をめぐる本格的な論争が1770年代まで始まらなかったこと。
  4. 名誉革命やウィッグ主流の実際の性格が、政府の解体、人民に由来する権力といった『統治二論』の教説からは程遠かったこと。むしろ革命後のイングランドにおいても、トーリー、王党派、家父長主義が影響力を長く維持したこと。トーリーの伝統に属するメアリ・アステルがロックの矛盾を指摘するために書いた「すべての人間/男menが生来自由だとしたら、どうしてすべての女は生来奴隷になるのか」という一節に、ここでゴルディは注目を促している(p. 25)。6
  5. ロックが『人間知性論』により得た名声が『統治二論』の名声に直結しないこと。
  6. ロックのステレオタイプ化は後年のウィッグの意図的戦術の産物であり、しかも彼はシドニー、ミルトン、ハリントンといった他のウィッグの英雄と並ぶ一人にすぎなかったこと。
  7. 18世紀イングランドの政治的言説を、自然法や社会契約論よりも、人文主義や共和主義から、あるいはトーリーの生存戦略から説明することが、現代において主流の研究動向になっていったこと。

 ロック、ふたたび中心へ(pp. 30-49)
 しかしながらゴルディは「ロックの遍在性と周縁性との二者択一」を迫られる必要はないと宣言する。ロック政治思想の歴史的なインパクトを適切に描きなおすための諸根拠を、ゴルディは手際よく整理している。この部分こそ彼の序論の本領発揮である。

 ゴルディによれば『統治二論』がロックの生前にもった影響力は、修正派の想定よりはるかに大きかった。1690年代、同書は先進的ウィッグのあいだで称賛され、コーヒーハウスでの議論の一主題となった。『統治二論』の名声を決定的に高めたきっかけは、1701年、ケント州の5名のジェントルマンによる庶民院への請願であった。彼らが扇動のかどで逮捕されたことをきっかけに、ジャコバイト主義から距離をとりつつ「議会における王冠」の主権を主張するトーリー陣営と、議会の至上権を人民主義的に擁護するダニエル・デフォーやジョナサン・スウィフトらウィッグ陣営との論争が引き起こされた。そのなかで『イングランド人民の権利Jure Populi Anglicani』の著者――ロックのパトロンのサマーズ卿と推察される――は『統治二論』の「学識深く才知に富んだ著者」の字句を復唱しながら、人民の請願の自由を擁護したのである。その数年後、ロックが世を去って間もないころから『統治二論』がトーリーによる批判の標的となっていたことも、同書の名声を逆の側から証明している。ここでゴルディは、1709年の風刺画にも目を留めている――その絵はウィッグの低教会派聖職者ベンジャミン・ホードリーを攻撃するものだが、彼の蔵書の一冊にはLocke on Governmentと標題が書き込まれていたのである。7

 18世紀をとおして『統治二論』は、恣意的統治を批判し人民の立憲的権力に訴える書として読まれつづけた。同書を無断引用した『政治箴言集』(1690年)は、1710年には『民の声は神の声Vox populi, Vox dei』として、さらにその後は『全王国の判断The Judgement of Whole Kingdoms』として、標題を変えながら改版された。このパンフレットの匿名の著者は、ロックの字句を逐語的に引用しながら、不正な統治にたいする人民の抵抗を歴史的、国制論的なしかたで擁護している。1716年、国王の議会不招集を防ぐための三年議会法(1694年)が七年議会法へと置き換えられようとしたとき、ジョン・スネルは庶民院で、ロックを引用しつつ、みずからの義務を怠る議会を批判した。1760・70年代には、カムデン卿もまた同じようにロックを議会演説に活用している。

 政治教育の書としても『統治二論』は普及していった。同書は「判断を誤った忠誠問題の論稿」ではなく「知的な清潔さを鍛える野心的な学問的訓練an ambitious academic exercise in intellectual hygiene」として受容されたのである(p. 34)。名誉革命後のウィッグにとって、フィルマーの家父長制論の論駁はなおも課題でありつづけた。ウィッグ派のジェントルマンたちは、子弟をオックスフォードやケンブリッジに送るのを避けるようになった。こうした傾向にともなう変化として、政治教育がスコットランドの大学や非国教徒のアカデミーでカリキュラムに組み込まれていった。そのような流れのなかで、1695年にはエディンバラの法曹会図書館(Advocates Library)が『統治二論』の購入を推薦した。グラスゴー大学では、同書はカーマイケルによりプーフェンドルフのテクストの副読書として、さらには後任のハチソンにより道徳哲学の教科書として採用された。非国教派のアカデミーでも『統治二論』は1700年代のうちに普及した。

 1760年代以降、ロックが英米の政治的論争において中心的役割を果たすようになることは、修正派によっても否定されていない。これについてもゴルディは関連するテクストや論争、政治的事件などを豊富に紹介しているが、この部分については本稿では省略することにする。

 社会主義的に解釈されたロックという意外性あるテーマについても一瞥しておきたい。ここでゴルディが挙げるテクストは、トマス・スペンス『人間の権利』(1775年)、ジョン・セルウォール『自然の権利』(1796年)、トマス・ホジスキン『自然的および人為的所有権Natural and Artificial Right of Property』(1832年)である。ホジスキンにおいては、資本主義という新たな造語が「ロックの原理に反する」(p. 37)経済様式を指すものとして用いられていた。とはいえ、ロックに依拠しつつ土地の共同利用権を提唱したセルウォールに見られるように、この時期の社会主義的な解釈者たちがロックの教説に見出した理想社会は、農本的社会、自足的な家政、小生産者の共和国といった、伝統的なビジョンをなおも色濃く反映していた。

 ロックの批判者の側に生じた変化にもゴルディは留意している。アメリカ革命とフランス革命の時期にはロック批判もまた隆盛したが、その言説のなかにゴルディは、トーリー主義の復活から近代保守主義への移行を読み取る。その一方で、英国人のフランス革命への敵意が高まるにつれ、ロックは「対抗啓蒙の犠牲となった」。関連するできごととしてゴルディは、1794年、急進派の靴職人ハーディらを反逆罪に問うた裁判でロックは扇動者か否かが議論されたことや、1815年におけるロックの「二度目のオックスフォード追放」(クライストチャーチ・ホールからの彼の肖像画の撤去)に言及している(p. 39)。

 ロックは『統治二論』のみならず『人間知性論』や『寛容書簡』や経済にかんする諸論稿においても政治的・社会的インパクトをもった。1690年代なかば以降、彼の『知性論』は反三位一体説やエピクロス主義的無神論に傾倒する異端の教説として攻撃されたが、その対極にはロックの盟友ティレルをはじめとして、ロックに自然権理論とストア派的またはキケロ主義的な公共道徳との結合を見出す思想家たちもいた。教会と国家をめぐる諸論争においても、一方では高教会派がロック的寛容論を1689年寛容法とともに敵視していたが、他方ではマシュー・ティンダル『キリスト教会の権利』(1706年)におけるロックの理神論的解釈や、クエイカーを含む非国教徒によるロックの援用の伝統があり、そしてこれら両極のあいだで、国教会擁護やカトリック不寛容論(ただし宗教的理由ではなく政治的理由に根拠を置くもの)など、多種多様な立場がロックから引き出された。同時代にもっとも大きなインパクトを与えたロックのテクストは銀貨改鋳をめぐる彼の著作であったが、経済政策の分野においてもロックの影響は決して一義的ではなく、彼の著作はときにトーリーのウィッグ批判の武器としても使われた。

 このようなロック政治思想の影響の多面性と多義性を、ゴルディは「英語圏の啓蒙期における政治的言語の多様性」(p. 45)に結びつける。ロックの自然法学は、たしかに権利中心的、個人主義的と特徴づけることができるけれども、しかしキケロ的義務論、古来の国制論、市民的人文主義、共和主義といった言説と融合可能であったし、思想史の諸局面において実際に融合したのであった。ゴルディはまた「党派横断的な折衷主義」(p. 46)にも、すなわち、ウィッグ主義の財産と見なされがちなロックの政治理論が、ときにトーリーやジャコバイトにすら援用可能な知的遺産であったことをも強調している。

 以上の考察からゴルディが引き出すのは、彼が「意図主義の誤謬intentionalist fallacy」(p. 47)と呼ぶものへの戒めである。いわく、ロックの受容史の研究は、ロック自身が彼のテクストに込めた意図の追跡である必然性はない。むしろ啓蒙期の政治思想史を研究する者は、18世紀における多様なロックの読解を、もっと寛容に、それ自身の権利をもつ知的現象として扱うべきだ。そのようなアプローチによって、なぜ『統治二論』が「宗教改革期の敬神的反乱の終点」のみならず「啓蒙的リベラリズムの始点」にもなりえたのかを明らかにすることができる。

 アメリカのロック(pp. 49-59)
 ロックの聖像化から彼の政治思想の周縁化へというパターンは、アメリカ史の分野にも妥当する。ルイス・ハーツ『アメリカ自由主義の伝統』(1955年)に代表される、ロック主義の実現としてのアメリカ革命というビジョンは、やはり1960年代以降、修正派により覆された――アメリカ的自由のイデオロギー的源泉を市民的共和主義に見出したバーナード・ベイリンやゴードン・ウッド、そしてふたたびポーコック、等々の研究者によって。それと並行して、スコットランド学派やコモンロー法学などが革命期アメリカにもたらした多様な知的遺産もまた注目されるようになった。このことについてゴルディは、修正派が想定する(市場主義的ないし個人主義的な)自由主義と(共同体主義的な)共和主義との鋭い対立という枠組が、アメリカにおいては概して疎遠なマルクス主義の伝統に頼ることなく、ハーツ流の「ブルジョワ的、快楽主義的、利己的、自由主義的ロック」からアメリカを解き放つために役立ったと指摘する(p. 54)。

 これにたいしてゴルディは、修正派以降、ロックの著作――『統治二論』のみならず宗教論、寛容論、経済論をも含めた――がアメリカ革命史に及ぼした影響がふたたび重視されるようになったことを強調する。とくにゴルディは、建国期のアメリカ思想のなかにロックを位置づけなおすことに、二つの論点が寄与したことを確認している。第一に、古い政府を離脱し新たな政府を創設する自由をロックが支持したこと。第二に、ロックによる所有権および個人主義の擁護が「快楽主義的なエゴ〔の無条件の肯定〕よりも豊かな道徳哲学」(p. 59)に根拠づけられていること。


2 ロック政治思想の受容史をめぐる方法論的考察

 こうしてゴルディは、ロック政治思想の受容史をなす多種多様なテクストを編集しただけでなく、この歴史の簡にして要を得た見取り図を提供したのだった。彼の方法もまた簡潔で明快である。テクストそれ自体の意味やロック自身がそれに込めた意図を留保して、さまざまな解釈をそれ自身の資格において評価するという原則に、ゴルディは依拠している。以下では、このような受容史の方法について考察を加えたい。

 ダンの書評
 ゴルディの博識の産物である本選集について、その編集方針を講評することは、未熟な本稿筆者の手に余る。この務めについては、ジョン・ダンによる書評を紹介しつつ、さらに筆者が若干のコメントを加えることをもって代えたい。8

 本選集にダンが下す評価は、全体的に辛口である。ダンはゴルディの学識と、ロックのような大思想家が後世にもたらしたインパクトの把握という「きわめて苛酷な」課題に彼が挑んだことの意義とを認めつつも、しかしそれが適切な方法によって導かれていないために、本選集の価値が損なわれていると見る。ダンの批判は、テクストの選定および編集の方針にかんするものと、ロック政治思想の受容史に接近する方法にかんするものとに分かれる。

 ゴルディのテクスト選定の偏り、すなわち英語圏の著作への限定や、スコットランドの自然法学的著作の相対的無視については、特定の編集方針をとるかぎり避けられない問題としてダンは大目に見る。だが、より厳しく指摘されている問題もある。各巻がなかば主題別に編集されているのに、ゴルディの序論が巻構成に対応しておらず、しかも巻ごとの導入も欠けている。さらには、各巻の水準の隔たりもある。ダンいわく、最初の二巻の資料的価値はじゅうぶんに高いが、アメリカ革命期におけるロックの受容を扱う第3巻は、他のアメリカ革命の史料集と競うほどの水準に達していない。また、最初の四巻がそれぞれの主題(名誉革命の擁護、家父長主義と社会契約、アメリカ革命、フランス革命)をめぐる歴史的運動を記録しているのにたいして、第5巻と第6巻は、それぞれの主題(宗教論および経済論)とそうした歴史的運動との関連性が見えてくるようには編集されていない。

 これらの指摘には説得力がある。とはいえ、ゴルディがみずから断っているように、本選集の限界のいくつかはやむをえず設けられたものである。たとえば英語圏の著作への限定については、大陸におけるロックの受容にかんする知見が公刊当時において(今なおと付言すべきかもしれないが)限られていることが理由に挙げられている(p. 12)。他方でゴルディによれば、ロック政治思想の受容について「信頼できる著作リスト」を作成することには特有の困難があった。たとえばホッブズについて同じことをする場合とは異なり、ロックの政治論を論じたことを標題に示している18世紀の著作は「半ダース」ほどしかない。ほのめかし程度の言及や、剽窃といったやりかたでロックを扱っているにすぎない著作すら多いが、本選集はそうしたテクストも掲載しているのである(p. 11)。こうした困難な条件のもとで全6巻の選集を編んだことだけでも、ゴルディの功績は強調されていいだろう。

 他方で、ゴルディが序論においてロック政治思想の受容史を提示する方法にかんしては、ダンが下す評価はより厳しい。彼によれば、読者の知的興味を喚起しえているかという観点から見て、ゴルディの選集はテクストおよびその位置づけかたにおいては成功しているが、それらの「方法論的な処方せん」を示すべき序論においてはさほどうまくいっていない。さらにダンは、ロック政治思想の受容をめぐる従来の研究全般の限界へと話を発展させる。いわく、思想の受容史という困難な主題に取り組むには「適切な方法の選択と展開」が必要であるが、しかしロックの受容にかんする「知識の進歩」は、その大部分が「一連の方法論的正典ゆえに」というよりも、むしろそれら「にもかかわらず」達成されたものであった。とくに「同じ自然言語の中にあると思われる語彙からたまたま構成された、閉鎖的で相互に隔絶された「言語」のなかで政治的論争が習慣的に行われる」という想定は「はなはだしい不適切さ」を呈している。結局のところ「真の難題は、いまだテクストそれ自体のなかにある」。ここ40年(1960年代から世紀末まで)のあいだに解明が進んだのは、ロックの政治学的著作にたいする後継者たちの応答の「しかた」についてであるが、しかし「なぜ」後継者たちがそのように応答したかは、いまだ分かっていないのである。

 語り口の回りくどさと紙幅の短さとがあいまって、ここでダンが何を標的にしているかは掴みにくい。彼がゴルディの方法に不満を感じたであろうことは容易に推察できる。先に見たように、ゴルディは「意図主義の誤謬」を避け、後継者の多様な解釈をそれ自身の権利において扱うことを提唱していた。ところが著者の「意図」は、ゴルディやダンが属するケンブリッジ学派のコンテクスト主義的読解の要をなすはずである。それをあえて考慮の外に置くべしというゴルディの指針は、ケンブリッジ学派が要請する方法論的な厳密さの放棄とも取られかねない。しかしながら、ダンはコンテクスト主義にそぐわない方法だけを批判のやり玉に挙げているわけでもなさそうである。政治的論争を特定の「言語」の内部における「習慣的」実践として扱うことを不適切と非難するさいには、彼はむしろ、ある種のコンテクスト主義的アプローチ、すなわちクエンティン・スキナーの言説分析の手法を念頭に置いているように見える。ゴルディもまた序論において、自然法学、市民的人文主義、共和主義など、さまざまな政治的言説のタイプを参照しているが、ダンはそのように類型化された諸言説を文脈として設定する方法からは距離をとっている。9 そう解してよいとすれば、思想の受容史を研究するための適切な方法はいまだ誰にも見出されていないと、ダンは主張していることになる。

 ロックの政治思想がいかに受容されたかを叙述するだけでなく、なぜそのように受容されたかを理解することは、ダンが言うように、たしかに真の課題であると言えよう。しかし、ゴルディの手法またはその他の研究方法が、後者の課題にかんして「不適切」だとして、ダンは可能な代案をまったく示していない。少なくとも受容史の叙述という目的のためには、ゴルディの方法、つまり著者の意図を留保し、受容の諸事例をそれ自体として尊重することは適切であるように見えるし、異論の余地を残さない自明の指針だとすら言える。受容史において「いかに」を問うことと「なぜ」を問うことは、対立させるべきではないだろう。しかしダンはそうしているように見えるし、またそれゆえに、そもそも彼のコメントはゴルディの狙いとは噛み合っていないという印象を与える。

 受容史の叙述から理解へ
 それでは、思想の受容史の叙述から理解へと進むために、どのような方法を選ぶべきだろうか。あるテクストがいかに受容されたかを問うさいには、テクストの著者の意図とその読者の意図とが矛盾するとしても、後者がつねに優先されるべきだろう。他方で、なぜそのようにテクストが読まれたかを説明するさいには、読者の意図をひきつづき尊重すべきであるにせよ、それを著者の意図と関連づける必要もまたあるのではないか。あるテクストが、ある読者の意図によって新しい意味を付与されたと判定しうるのは、先行する意図と意味づけとの比較をつうじてでしかないからである。

 だとすれば、ゴルディのいう「意図主義の誤謬」を避けつつも、思想の受容史において著者の意図を適切に扱う方法を明確にせねばならない。そのためには、この主題をめぐるケンブリッジ学派内部における意見の相違に多少なりとも分け入らざるをえないだろう。この学派に属する研究者たちは、思想的テクストの読解をコンテクストまたは著者の文脈依存的な意図へと根拠づけるための方法を洗練させたが、しかし何を「文脈」として扱うかについては、彼らのあいだで意見は異なる。スキナーにとって文脈とは、ある時代と場所に固有の言語的またはコミュニケーション的な「慣習conventions」であり、ある著者はそれに沿って「ある意図をもった伝達行為」に関与する。10 スキナーが言説分析に向かうのにたいして、ダンは文脈という語で、むしろ一思想家の伝記的要素をも含んだ「経験」を、すなわち、その精神活動の通時的過程を想定する。11

 言説的慣習としての文脈に接近するスキナーの方法を応用する場合には、著者および読者が文脈づけられている意味伝達の慣行の差異を明確にしたうえで、テクストの受容過程を文脈の変化または断絶に関連づけながら理解する、という研究手続が考えられる。著者自身の意図は、あくまで非特権的な一材料として扱われるかぎりで、解釈をそれ自体として尊重するという受容史の原則には抵触しないだろう。このアプローチは、著者の言説的慣習と読者のそれとに相当の隔たりがある場合に、より有効であると思われる。たとえば前出のホジスキン『自然的および人為的所有権』(1832年)は、ロックのプロパティ理論をもって労働者の権利を擁護する試みである。ホジスキンによれば、ロックの自然的所有権とベンサムおよびミルの人為的所有権との対立は、労働者の大義と資本家の利益との対立を代表している。これは、資本と労働の対立という観念をもったはずのないロック自身にとってのみならず、ロックの所有権論をむしろ財産階級の擁護として解釈することに慣れた現代の読者にとっても、相当に意外な解釈といえよう。このような意味づけ差異の背後には、ロック、ホジスキン、現代の読者のそれぞれが属するところの、異なる意味伝達の慣行が控えているはずである。

 その一方で、著者の個人的な精神活動の文脈にクローズアップするダンの方法は、テクストを著者のパーソナリティと密接に関連づけることにより、著者の意図を特権的に扱うものであるように見える。しかしながらダンのアプローチもまた、非意図主義的な受容史研究に応用可能である。ただしそのためには、ダンの方法によって、彼がロックに見出そうとする特定の意味だけが引き出されるわけではないことを認めることが必要である。

 ダンは個人の精神史を重視するが、しかし個人の思想を完成された体系として想定するわけではない。むしろ彼によれば、ある思想は「不完全性、非一貫性、不安定性」を避けがたく抱え込んでいるが、しかし思想家は「それらを克服しようとする努力」によって、自己の知的所産にどうにかして一貫した意味を与えようと苦闘しつづける。12 このような精神的苦闘の軌跡を、ダンは思想の文脈として見出すのである。こうして彼は、テクストとその著者自身の意図との緊張を際立たせる。それゆえにダンの思想史は、彼のロック論がまさにそうであるように、悲劇的な英雄譚――登場人物の成功よりも挫折が読者に深い教訓を与えるような説話――の趣を帯びる。13 これもある意味で、テクストの意味づけにおいて著者がもつ特権の否定といえる。とはいえダン自身の眼目は、ロックの精神的挫折を正しく理解しないがゆえに、後世の読者たちがロックを避けがたく誤読してきたと示すことにあると見受けられる。これはたしかにロックの受容史の一つの叙述かつ理解だが、しかし非常に一面的な理解である。

 著者自身でさえテクストの完全に首尾一貫した意味を確定できるとは限らないことに留意しつつ、テクストの受容過程に接近することは、むしろ後続世代の読者たちの多様な解釈にたいしてテクストを開き、受容史研究をより実り豊かにすることに寄与するはずである。著者自身が意図しなかった含意を読者がテクストから引き出すことは思想の受容につきものだが、そうした事件はたんなる流用や改変や誤読ではなく、より大きな意味をときに含んでいるかもしれない。たとえばモリニューの『アイルランド論』(1698年)は、そうした事例の一つとして参照しうる。アイルランド議会の独立を示す試みである同書においてモリニューは、イングランド古来の国制が自由な統治であったと論証するために、すでに彼が友人ロックの著書と信じていた『統治二論』における同意による統治の原理を援用している。そのころロックは、アイルランドの毛織物産業の抑圧とひきかえにイングランドのそれを保護するための立法を推進しており、自著がアイルランドのために使われるとは想定しておらず、それには大いに戸惑わされたはずである。このロック研究者にはよく知られたエピソードにおいて、読者モリニューは著者ロックの意図しない読みかたを実践したにすぎないのだろうか。むしろ、ここでモリニューはロックよりもロックらしい解釈を『統治二論』から引き出したとは言えないだろうか。王位排斥危機から名誉革命までの一連の政治的事件は、そして『統治二論』――その執筆および公刊におけるロックの意図はこの時期における諸事件の一つ、またはいくつかに関連する――は、ジェイムズの背後に控えるフランスの外圧がイングランドにもたらした脅威への反応であった。それをふまえれば、イングランドの圧力からアイルランドの権利を守ろうとしたモリニューこそが『統治二論』の著者の意図を、ある意味では著者自身よりも適切に理解していたと言えそうだ。ある偉大なテクストからそれにふさわしい意味を汲み出すのは、つねに著者であるとは限らないのである。

 このようにして思想の受容史は、テクストの改変や誤読ではなく、むしろテクストの潜在的含意がそこで展開される、世代をこえたテクストの文脈づけの過程として理解することが、つねにではないにせよ可能であると思われる。そこでは、著者の意図は特権化されるわけではないが、しかし無視されたり留保されたりするわけでもなく、テクストの世代をこえた文脈を形成する要素として位置づけなおされるだろう。

 ある思想の受容史の叙述を、その理解へとさらに前進させる方法について、ゴルディが素描したロック政治思想の受容史にそくして考察してみた。ゴルディが言うように、ロックのテクストを「宗教改革期の敬神的反乱の終点」のみならず「啓蒙的リベラリズムの始点」としても位置づけうるとして、なぜそれが可能であるかを説明するためには、このような方法が役立つかもしれない――もちろん、それは実際の研究において証明されなければならないが。


  1. ^ 全6巻からなる本書に収録されているテクストの目次は、ジョン・アティッグ作成のウェブサイト John Locke Resources, Bibliography, Chapter 7: Politics & Government における本書のページに掲載されている(https://openpublishing.psu.edu/locke/bib/goldie.html 2020年3月15日閲覧)。
  2. ^ Jacqueline Rose, ‘The Contexts of Locke’s Political Thought,’ p. 56, in M. Stuart ed., A Companion to Locke, Wiley-Blackwell, 2015.
  3. ^ テクストの選定にかんする評注(pp. 11-14)でゴルディは、この選集においてpoliticsという語は「宗教的寛容や、貨幣と所有権にかんする諸観念を含む」と断っている(p. 11)。その一方で『統治二論』と、他の著書つまり『人間知性論』や『教育に関する考察』におけるロックの名声との「相互作用」を伝えるテクストは、選集の範囲を狭めるために除外したと述べている(pp. 11-12)。
  4. ^ ストウ庭園のロックの胸像は英国ジオグラフ・プロジェクトのウェブサイト(https://www.geograph.org.uk/photo/838017)を、ロックの肖像画(クネラー作、1697年)はエルミタージュ美術館ウェブサイト(https://www.arthermitage.org/Godfrey-Kneller/Portrait-of-John-Locke.html)を、それぞれ参照(2020年3月15日閲覧)。
  5. ^ ゴルディが言及している研究は以下である(pp. 20-21, notes 26-28)。Leslie Stephen, The History of English Thought in the Eighteenth Century, 1876; A.D. Linsey, The Modern Democratic State, 1943; Gerald Cragg, Reason and Authority in the Eighteenth Century, 1964.
  6. ^ Cf. Mary Astell, Preface from Reflections upon Marriage, 1706, in M. Goldie ed., The Reception of Locke’s Politics, vol. 2, p. 116.
  7. ^ ゴルディ(p. 31, n. 85)によれば、この風刺画は以下に掲載されている。Geoffrey Holmes, The Trial of Doctor Sacheverell, Eyre Methuen, 1973, opp. p. 32.
  8. ^ John Dunn, ‘Review, The Reception of Locke’s Politics by Mark Goldie,’ in The English Historical Review, Vol. 116, No. 465, 2001, pp. 145-147.
  9. ^ スキナーもダンもコンテクスト主義に依拠しているとはいえ、スキナーが言語行為論に依拠しつつ思想の文脈を言語的慣行として特定するのにたいして、ダンは言語行為論にはほとんどコミットしていない。堤林剣「ケンブリッジ・パラダイムの批判的継承の可能性に関する一考察(1)」、慶應義塾大学法学研究会『法学研究』72(11)号、1999年、81-82頁を参照。なお堤林は「ケンブリッジ・パラダイム」またはケンブリッジ学派の方法論について、ダン、スキナー、ポーコックのあいだに「著しい相違がある」ことに注意を促している(同前、44頁)。
  10. ^ クエンティン・スキナー『思想史とはなにか――意味とコンテクスト』岩波書店、1990年、161頁。
  11. ^ John Dunn, ‘The Identity of the History of Ideas,’ in Political Obligation in Its Historical Context, CUP, 1980, pp. 26-27.
  12. ^ Dunn, ‘The Identity of the History of Ideas,’ p. 16.
  13. ^ ジョン・ダン『ジョン・ロック――信仰・哲学・政治』岩波書店、1987年。