2022年4月27日

第25回研究会の報告

   

第25回イングランド啓蒙研究会

2022/3/27 オンライン

前回にひきつづき、論文集の原稿準備のため、以下の3名が研究発表を行った。


瀧田寧「何が自立を可能にするのか ロックにおける「試みること」の意義」

 ロック知識論の特質を示すキーワードの一つに、「白紙」がある。人間の心は、もともと「白紙」のように具体的な文字が何も書き込まれていない状態、つまり具体的な何かに縛られていない状態であるのに、自らの知性で事物を判断するようになる頃には、いつの間にかさまざまなものに縛られている。知性がそうしたさまざまなものに縛られることなく、それらから自立して、自らの力を総動員した成果として知識の確実性を知覚したり、意見や信念の蓋然性を判断したりしていくべきである、ということが、ロック知識論の意義の一つと考えられる。

 そこで本報告では、まずロックが知性の自立のために考慮すべきこととして、主にどのようなことを述べているのかを挙げていった。次にそれらを、17世紀の半ばにフランスのポール・ロワイヤルの人々によって書かれた『論理学、別名思考の技法』のうちに見られる人間観と比較した。その結果両者には、「他者の見解に縛られたり鵜吞みにしたりするのではなく、また自らのうちに湧き起こる情念に流されることもなく、真理そのものに対し自らの多角的思考を働かせて確実性や蓋然性を判断できるよう知性を鍛えるべきである」という類似点が見いだされた。

 ところで、ロックが知性の自立のために考慮すべきことを述べた箇所として上に挙げたものの一つに『人間知性論』第2巻第21章があるが、その章は、第2版で初版の見解に修正が加えられ、大幅な追加がなされている。その修正点とは、「大きい方の善が、意志を決定する」という説を初版では当然としていたが、第2版では、「大きい善に釣り合って起こった欲望が、善のないことに私たちを落ち着かなくさせないうちは、善は意志を決定しない」という結論を導くことになった、ということである(2-21-35)。つまり、善と意志との間に「落ち着かなさ[uneasiness]」を挿入することになったのである。この追加箇所の内容は、『論理学、別名思考の技法』のうちに類似点を見いだすことが難しい。

 そこで本報告では、この追加箇所を中心に取り上げ、「快」の欲望としての「落ち着かなさ」がどのような行為へと人間を駆り立てていくのかを検討した。そのうえで、その実践編がどのように描かれているのかを、同時期に書かれた『教育に関する考察』第3版の追加部分や、その後に書かれた『知性の正しい導き方』の中に見ていくこととした。

 その結果、「快」の欲望としての「落ち着かなさ」が人間を「試みる」という行為へと駆り立てること、またその「試みる」という行為が出発点となって思考が始まり、やがて遠い目標を観想できるようになること、以上二点がロックの考え方の特徴として浮き彫りにされた。これらを踏まえると、知性の自立が可能になるのは、人間が「知る」ことの快さを欲して「試みる」という行為へと駆り立てられ、「試みる」という行為と「知る」という快の思考との往還のうちに徐々に遠い目標への観想が生みだされ、ついにその観想された目標と照合しながら目の前の事物を判断できるようになるときではないか、という結論が導かれた。



下川潔「トマス・ペインと新しい自然権概念 ロック自然権概念のラディカルな変容」

 18世紀ヨーロッパ啓蒙の時代に自然権概念が二つの革命とともに歴史の表舞台に登場し、第二次大戦後にそれが人権として世界人権宣言の中で再生したにもかかわらず、啓蒙の自然権概念の特質やそれ以前の自然権概念との差異については、あまり研究がなされていない。本発表では、啓蒙の祖ジョン・ロックの自然権概念が、どのような過程をたどって変容し、18世紀末のトマス・ペインにおける「人間の権利」の概念が成立したのかを解明することを目指す。その第一歩として、ペインの自然権権利の概念を同定し、ロックの自然権概念との比較を試みたい。

 ウルストンクラフトやリチャード・プライスの場合とは異なり、ペインにおいては、比較的容易に、自然権概念に焦点をあわせることができる。『人間の権利』第一部(1791年)によれば、人間の権利ないし自然権が何であるかを知るためには、人間が神によって創造された時点に遡らなくてはならない。創造の時点では、人間の単一性ないし平等性があり、男女の区別が唯一の人間における差異であった。「自然権とは、生存しているという理由で人間に属している権利のこと」であり、その権利は二種類に分かれる。第一に、「あらゆる知的な権利、ないしあらゆる心の権利」があり、第二には、「他人の自然権を損なうことなしに、自分自身の快適さと幸福を求めて、個人として行為するあらゆる権利」がある。前者は、良心の自由、信教の自由、思想・学問の自由、表現の自由、出版の自由などの精神的由への権利を含み、後者は、人身の自由、財産を処分する自由をはじめ、あらゆる行為の自由を、他者の自由を侵害しないという条件のもとで認めている。

 ペインによれば、第一種の権利は、社会の力を借りずとも、個人が自らの力を使って行使できるのに対して、第二種の権利に関しては、それを行使、執行するためには、損害賠償の場合のように社会の援助が必要となる。そのため、社会を形成する際に個人は第二種の権利の一部を社会に譲渡し、寄託することになる。ペインはさらに、フランスの「人間と市民の権利の宣言」(1789)の条文に即して、自然権の説明を補足する。その宣言の最初の三条は、人間の自然権と国家の一般規定であり、他の条文はその具体的説明だとし、特に第4条が行為の自由への権利を定め、第10条や11条は、良心の自由、信教の自由をはじめとする精神的自由への権利を定めていると指摘する。

 このような自然権理解は、ロックのそれと比べて、いくつかの点で明確に異なっている。両者とも自然権概念を神と結びつけてはいるが重要な差異が存在する。

  1. ペインが精神的自由と(物質的な)行為の自由の両者を自然権として捉えたのに対し、ロックは、主要な自然権を、各人の「生命」、(人身の)「自由」、(労働や貨幣で築いた)「財産」という現世の三つの財への権利に限定し、良心の自由(ないし信教の自由)をこの種の自然権から排除し、統治者や隣人の宗教的寛容の義務によって実現するような、単なる消極的自由として扱った。
  2. ペインの行為の自由への権利は、ロックが自然権の大枠として採用したプロパティ(排他的支配権)という枠組を取り払ったうえで成立する権利であり、この点でジェファソンやビュルラマキの幸福追求権に類似し、また、ミル的な危害原理を明確に取り入れている。
  3. ペインは、寛容を不寛容の偽造品として批判し、寛容の義務ではなく、万人の自然権として、良心の自由や信教の自由を弁護しており、この点でおそらく大きな現代的意義ももつと思われる。
 以上の比較をさらに思想史的に肉づけし、ペインの『人間の権利』第二部(1792)に即して自然権と万人の幸福の関係を解明し、『農地の正義』(1797)における土地所有権の位置づけを考察すれば、ペインの自然権概念は、ロック自然権がラディカルに変容したものとして浮か上がるだろう。



武井敬亮「トーランド以降の理神論の展開 ジョン・ロックの「理性」認識を起点に」

 本報告では、アンソニー・コリンズの『理性の使用に関するエッセイ』(以下、『エッセイ』)An Essay Concerning the Use of Reason (1707)の分析を通じて、ロックの「理性」認識を援用する“理神論者”の議論が、ロックの立場からすれば、意図せざる結果として、合理化(=理神論的傾向が強化)されていく思想伝播の在り方(=啓蒙思想の展開)の一端について考察した。

 コリンズは、「理性Reason」という言葉を、「命題を構成する諸観念の必然的な、あるいは、蓋然的な一致・不一致」によって「命題の真偽や確実性・不確実性を知覚する知性の働き」と定義する(pp. 3, 4)。その上で、①直感的に知覚する場合、②中間的な観念を媒介にして知覚する場合、③他者の証言によって知覚する場合について考察する。コリンズが特に注意を向けているのが③である。その理由は、コリンズが、「啓示宗教の信仰は[聖書の]証言にもとづいている」と考えていたからである(p. 7)。当時、信仰の対象(具体的には三位一体)の真偽をめぐって論争が繰り広げられていたことが背景にある。

 次に、コリンズは、「理性を超えたabove Reason」の意味について、①その対象を自分の能力で直接に知覚できない場合、②その対象と完全に一致する観念を私たちがもたない場合、③対応する観念を私たちがもたないにもかかわらず同意(信仰)の対象とする場合、について考察する。①の場合、私たちが直接に知覚できないもの(その意味で「理性を超えた」もの)であっても、第三者の助け(証言を含む)によって、それを知覚することができるという。この議論は、聖書における奇跡についての証言も、理性による判断が可能であることを含意する。②の場合、その対象自体が「無nothing」であり、認識の対象にならないという。③の場合、三位一体を例に、自身の証言に関する議論に依拠しながら、同時代の神学者による解釈を論駁することによって、それが同意(信仰)の対象にならないことを示す。

 以上の議論から、コリンズは、ロックの認識論を援用しながら、すべての命題を理性の対象に含め、その真偽、確実性・不確実性を判断することが可能であると主張していることが分かる。特に、コリンズが「理性を超えたabove Reason」の意味について考察する中で、第三者の助け(証言を含む)によって、理性の対象に含める議論をしている点や、私たちが対応する観念をもたないものを認識の対象から切り捨てるラディカルさをもっている点が特徴的である。こうしたコリンズの議論は、その後の理神論の流れの中で受け継がれていくことになる。今回の報告では、コリンズの『エッセイ』のテキスト分析を主に行ったが、コリンズの議論の同時代的な意味について掘り下げていくことが今後の課題となる。