第37回研究会の報告
公開学習会 イングランド啓蒙からフランス啓蒙へ——経験論、感覚論、唯物論
2024年10月6日(日) 一橋大学
啓蒙期フランスにおけるイングランド思想の受容というテーマについて理解を深めるために、この日は「公開学習会」と銘打って、一橋大学特任教授の森村敏己さんに「エルヴェシウスにおける唯物論的感覚論」についてのお話を伺った。本研究会メンバーにくわえて、主題に関心をもつ研究者や一橋大の学生など、あわせて25名が参加した。
イングランド啓蒙とフランス啓蒙の連続性という観点においてエルヴェシウスは、ロックの経験論をもとにコンディヤックが展開した感覚論にもとづいて、人間本性や道徳や政治についての唯物論的な学説を展開した思想家として位置づけることができる。この点について森村さんが提起した問題は、いかにしてエルヴェシウスは、観念が感覚に由来するという教説から、霊魂と物質の二元論を完全に否定する唯物論へと飛躍しえたか、ということであった。
この問いに答えるための前提として、コンディヤックが比較の対象に挙げられた。ロックが観念の源泉として「感覚」と「内省」の二つを認めたのに対して、コンディヤックは「内省」を「感覚」に還元することによって観念の源泉を一元化した。他方で、エルヴェシウスはコンディヤックの認識論を実質的に要約するだけで、それに何も付け加えなかった。両者が分かれるのは感覚論の道徳・宗教問題への適用のしかたである。あくまでコンディヤックは、感受性を備えているのは霊魂であって感覚器官(物質)は知覚の媒体にすぎないと、またそれゆえに人間は現世のみならず来世の快苦=死後の賞罰によっても動機づけられて道徳的にふるまうと(この点ではロックにならって)主張した。ところがエルヴェシウスは、霊魂の存在と死後の賞罰をともに否定する。
エルヴェシウスの感覚論的唯物論とは、森村さんによれば、感受性(サンシビリテ)を「特定の構造をもった」物質が帯びる属性とみなす立場である。こうして霊魂は認識論において不要となる。さらには自由意志の存在が否定され、快苦=利害関心という原因をもたない意志はありえないとされる。したがって、人を動かすのは現世的快苦のみである。しかし人間は、道徳的賞罰(公衆の評価=世論)と法的賞罰(国家)とによって道徳的行為へと動機づけられる。ただしそのためには、公衆が無知と偏見から解放されていなければならず、また国家が専制に陥らないよう公衆の政治参加が確保されている必要がある。
こうしてエルヴェシウスの唯物論と功利主義は原理づけられている。それを彼は、主観的にはロック認識論の応用として考えていた。しかし実際にはそれを、統治の改革によって道徳的改善が必然的に達成されるという展望に結びつけたのであり、この点にエルヴェシウスの飛躍があったのである。
以上が森村さんの講演の要旨である。これに対して、柏崎正憲(一橋大学講師)がコメントをくわえ、またフロアから多くの質問が挙がった。エルヴェシウスの第一の目的は、認識論や形而上学よりも、道徳と宗教の徹底的な峻別という(ある意味では啓蒙において典型的な)目的にこそあったと理解していいのか。エルヴェシウスの原理は道徳的次元では決定論につながるのに、どうして彼はそこから環境の改善という展望を引き出しえたのか。自由意志を否定する立場において個人の罪はどう扱われるのか。彼の功利主義はベッカーリアやベンサムのそれとどう違うか。森村さんが翻訳されたJ.イスラエル『精神の革命』について。等々。森村さんには一つ一つの質問に対して詳細かつ丁寧なご回答をいただいたので、参加者はたいへん勉強になった。
最後に、研究会メンバーで一橋大学の卒業生でもある下川潔(学習院大学名誉教授)が、懐かしい思い出話を交えつつ、森村さんと参加者に感謝を述べ、盛会となった学習会を締めくくった。