Nicholas Jolley, Toleration and Understanding in Locke (Oxford University Press, 2016)
沼尾恵 (慶應義塾大学)
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本書における著者Nicholas Jolleyの主張は、ロックが体系的な(systematic)思想家であるということである。著者によれば、今日のロック研究は、学問領域によっていわば分断されており、こうしたことの結果として、ロックの思想の断片しか見えなくなっている。ロックの政治理論の研究者はロックの政治理論の著作を、ロックの哲学の研究者はロックの哲学の著作をそれぞれほぼ唯一の分析対象とし、相互の関連性を見出す努力を基本的にしないでいるのである。こうした状況に対して著者は、ロックの思想世界を「宗教的寛容」(religious toleration)というキーワードでつなげ、その体系性を示すことができると考えるのである。(本書の裏表紙では、ロックの3つの主要作品 ――『人間知性論』、『統治二論』、『寛容についての手紙』―― のつながり、というような売り文句になっているが、実際にはこの3つの作品以外にもロックの著作が検討されており、この3つの作品のつながりというよりは、諸分野におけるロックの思想のつながり、といったほうがよいかもしれない。この点についてはまた後で触れる)。
本書の構成は、序論と結論を除く8章立てである。まず第2章では、著者は「自然法」と並んでロックの生涯に渡る関心事として「寛容」を挙げ、ロックの思想の軌跡を辿る。これは、多宗派の存在という現実を目の当たりにした若きロックが、さまざまな宗派のひとびとをひとつの教会に「包括」するという政策の実現可能性、また宗教的寛容と政治的秩序の両立可能性という2つの課題に取り込み、紆余曲折を経て、再び後年、こうした課題に取り込むという物語になっている。
第3章から第6章において、著者は、ロックの『人間知性論』と寛容論(これは『寛容についての手紙』に加え、同書の批判者ジョナス・プロウストに対する応答の一連の寛容書簡や『寛容についての手紙』以前に書かれた『寛容についてのエッセイ』を含む)との相性、あるいは、互換性について検討する。第3章では、著者によれば、ロックはプロウスト論争において知識(knowledge)と信念(belief)とを明確に区別し、啓示宗教が後者にかかわる事柄であるため、国家による「真の宗教」の強制は正当化できない、と論じているのであり、このようにプロウスト論争を検討することで『人間知性論』の射程をとらえ直すことができるという。続く第4章において著者は、ロックがひとは自身で知識や信念にかかわることについて判断しなければならないという認知的個人主義(epistemic individualism)の立場をとっていることが『人間知性論』やプロウスト論争から見える、と主張する。第5章では、『寛容についての手紙』において、ひとが自在に信念を変えることができないと主張するロックを、「真正な信念」(sincere belief)という概念を用いることによって、プロウスト(そして現代においてはWaldron 1991)の批判から護り、ロックの一貫性を担保することができる、と著者は論じる。そして第6章では、ロックがなぜ狂信(enthusiasm)についての章を『人間知性論』に追加したのか検討されている。著者は、それはロックの知性論と狂信との間では、実は共通点があるように見えるため、ロックが自身の立場を明確にするべく新たな章をつけ加えたのではないか、と推測する。同時に、著者は、より寛容な知的環境を醸成するうえでも、ロックが熱狂主義を論駁する必要があった、と説明する。
つぎに、本書の第7章から第9章では、ロックの政治理論、寛容論、そして道徳・宗教思想との間のつながりについて、著者は取り扱う。第7章において、著者は、Waldron 1991の批判に対する応答として、ロックの『統治二論』および『寛容についての手紙』が相互補完的であるということを指摘すると同時に、宗教的寛容を国家の役割(function of the state)という観点からロックが論じている、と主張する。そしてここで重要なことは、国家の役割を契約主義的(contractualist)な観点から理解できるということである。というのも、後のプロウスト論争で問題になるのが、なぜ国家の役割に宗教的な事柄が含まれないのかという問題であり、こうした問題の存在を考えたとき、『統治二論』と『寛容についての手紙』との関係に、新たな見方が生まれてくるのである。第8章では、著者は、『寛容についての手紙』においてさまざまな信仰を認める寛容を謳ったロックと『キリスト教の合理性』においてキリスト教の多宗派をひとつの教会の下にまとめる包括(comprehension)を援護射撃するような神学的立場を明らかにしたロックとの間の一貫性について検討する。著者は、他宗教を受け入れる政策としての寛容(tolerationあるいはindulgence)とキリスト教内のまとまりを願う包括政策は相反するものではないと論じる。最後に、第9章では、『寛容についての手紙』において、なぜ自然法の議論が出てこないのかという問題を著者は扱う。著者によれば、これは自然法から宗教的寛容の正当化を試みた場合、同じく自然法を使い、しかしながら、国家の役割を世俗的な事柄に制限しなかった「賢明なるフッカー」(Judicious Hooker)との相違に注意を引いてしまうおそれがあったためである。
以上までが本書のまとめであるが、以下、本書の評価に移りたい。まず本書は共鳴できたところ、刺激を受けたところ、それぞれ多々あった。しかし、同時に危うさや物足りなさを感じさせられるところもあった。肯定的に評価できる点からはじめると、それぞれの章の議論がロックの思想におけるパズルを取り上げ、ユニークで、かつ、なかなか説得力がある視点を提供していることを挙げることができる。たとえば、第3章と第7章は、プロウスト論争からロックをとらえ直す新たな視点を提供していると同時に、ロックの政治理論、寛容論、そして哲学との間のつながりをより鮮明にしてくれている。
もちろん、(たとえば)『寛容についての手紙』と後の寛容書簡との間では理論的な変化がなく、機会が与えられたからこそ、ロックは『寛容についての手紙』の前提をより明確にし、説明することができた、という見方もできなくはない。ただ、この時点までのロックが、著者自身指摘しているように、前期から中期にかけて寛容の問題について方向転換したことや、また『人間知性論』や『統治二論』も出版後修正を加えていったことに鑑みれば、この3作品の間の一貫性ということに拘らず、「ロック思想の変遷」と「一貫性を目指す努力をするロック」という設定のほうが無難だったかもしれない。(無論、3つの作品がそれぞれ修正・明確化されていったという意味で、共時的ではなく通時的な観点からこの3つの作品の一貫性を見ているということもできるが、であれば、なおさらこれは単にロック思想の変遷とも言い換えることができるのではないだろうか)。
先行研究の調査範囲の狭さにあわせていうと、印象として本書で参照される政治理論側の最近の研究がやや少なく感じた。たとえば第9章の自然法にかんする議論の欠如の問題では、Harris 2013(またHarris 2002)に言及がなく、評者としては多少不満が残る。(本書が出版された2016年から逆算して、原稿ができあがっていたであろう時期を推測してみると、もしかしたらまだこの研究は出版されていなかったのかもしれないが、出版まで3年あれば言及することぐらいはできたように思われる)。
最後に、本書の分析的な側面からの物足りなさについて言及したい。上でも述べたが、本書の各章では、それぞれロックの思想におけるパズルが取り上げられ、それぞれそれなりに説得力がある議論がされている。ただ、本書の目的がロックの体系性を示すことであることを改めて考えると、少しその観点からは物足りなさを感じた。本書のNuovo 2017による書評に指摘されていることだが、ロックの3つの作品を結ぶキーワードとして挙げられている宗教的寛容はあくまで「テーマ的」(thematic)なつながりであるように思われる。これは、ロックの3つ作品が理論的にどう結びついているのか、という問題とは別である。Nuovo自身は「道徳」(morality)という言葉でこのつながりを説明しているが、これは著者のJolley自身が認めているロックのもうひとつの関心事である、自然法と関連することである。たしかに本書の第9章は、自然法にかんする議論だが、この章からは、自然法があくまでもひとつのつなぎでしかなく、ロックの思想世界をまとめる要であるというような印象は受けない。
またこの問題と関連していえることは、本書のそれぞれの章がややケーススタディ的な傾向があり、理論構造的な観点からロックの思想世界が全体としてどうまとまっているのか、本書を読んで理解がさほど深まらなかった。
このようにやや批判的に本書を評価してきたが、さまざまな側面において新たな視点を提供してくれる刺激的な本であったことは間違いなく、ロックの哲学を専門にする研究者であれ、ロックの政治理論を専門にする研究者であれ、一読してほしい本のひとつである。
本書の構成は、序論と結論を除く8章立てである。まず第2章では、著者は「自然法」と並んでロックの生涯に渡る関心事として「寛容」を挙げ、ロックの思想の軌跡を辿る。これは、多宗派の存在という現実を目の当たりにした若きロックが、さまざまな宗派のひとびとをひとつの教会に「包括」するという政策の実現可能性、また宗教的寛容と政治的秩序の両立可能性という2つの課題に取り込み、紆余曲折を経て、再び後年、こうした課題に取り込むという物語になっている。
第3章から第6章において、著者は、ロックの『人間知性論』と寛容論(これは『寛容についての手紙』に加え、同書の批判者ジョナス・プロウストに対する応答の一連の寛容書簡や『寛容についての手紙』以前に書かれた『寛容についてのエッセイ』を含む)との相性、あるいは、互換性について検討する。第3章では、著者によれば、ロックはプロウスト論争において知識(knowledge)と信念(belief)とを明確に区別し、啓示宗教が後者にかかわる事柄であるため、国家による「真の宗教」の強制は正当化できない、と論じているのであり、このようにプロウスト論争を検討することで『人間知性論』の射程をとらえ直すことができるという。続く第4章において著者は、ロックがひとは自身で知識や信念にかかわることについて判断しなければならないという認知的個人主義(epistemic individualism)の立場をとっていることが『人間知性論』やプロウスト論争から見える、と主張する。第5章では、『寛容についての手紙』において、ひとが自在に信念を変えることができないと主張するロックを、「真正な信念」(sincere belief)という概念を用いることによって、プロウスト(そして現代においてはWaldron 1991)の批判から護り、ロックの一貫性を担保することができる、と著者は論じる。そして第6章では、ロックがなぜ狂信(enthusiasm)についての章を『人間知性論』に追加したのか検討されている。著者は、それはロックの知性論と狂信との間では、実は共通点があるように見えるため、ロックが自身の立場を明確にするべく新たな章をつけ加えたのではないか、と推測する。同時に、著者は、より寛容な知的環境を醸成するうえでも、ロックが熱狂主義を論駁する必要があった、と説明する。
つぎに、本書の第7章から第9章では、ロックの政治理論、寛容論、そして道徳・宗教思想との間のつながりについて、著者は取り扱う。第7章において、著者は、Waldron 1991の批判に対する応答として、ロックの『統治二論』および『寛容についての手紙』が相互補完的であるということを指摘すると同時に、宗教的寛容を国家の役割(function of the state)という観点からロックが論じている、と主張する。そしてここで重要なことは、国家の役割を契約主義的(contractualist)な観点から理解できるということである。というのも、後のプロウスト論争で問題になるのが、なぜ国家の役割に宗教的な事柄が含まれないのかという問題であり、こうした問題の存在を考えたとき、『統治二論』と『寛容についての手紙』との関係に、新たな見方が生まれてくるのである。第8章では、著者は、『寛容についての手紙』においてさまざまな信仰を認める寛容を謳ったロックと『キリスト教の合理性』においてキリスト教の多宗派をひとつの教会の下にまとめる包括(comprehension)を援護射撃するような神学的立場を明らかにしたロックとの間の一貫性について検討する。著者は、他宗教を受け入れる政策としての寛容(tolerationあるいはindulgence)とキリスト教内のまとまりを願う包括政策は相反するものではないと論じる。最後に、第9章では、『寛容についての手紙』において、なぜ自然法の議論が出てこないのかという問題を著者は扱う。著者によれば、これは自然法から宗教的寛容の正当化を試みた場合、同じく自然法を使い、しかしながら、国家の役割を世俗的な事柄に制限しなかった「賢明なるフッカー」(Judicious Hooker)との相違に注意を引いてしまうおそれがあったためである。
以上までが本書のまとめであるが、以下、本書の評価に移りたい。まず本書は共鳴できたところ、刺激を受けたところ、それぞれ多々あった。しかし、同時に危うさや物足りなさを感じさせられるところもあった。肯定的に評価できる点からはじめると、それぞれの章の議論がロックの思想におけるパズルを取り上げ、ユニークで、かつ、なかなか説得力がある視点を提供していることを挙げることができる。たとえば、第3章と第7章は、プロウスト論争からロックをとらえ直す新たな視点を提供していると同時に、ロックの政治理論、寛容論、そして哲学との間のつながりをより鮮明にしてくれている。
しかし、こうした本書の強みは、注意をしなければ同時に問題にもなりかねない。これは、すなわち、時間的に『寛容についての手紙』の後のプロウスト論争の文脈で書かれた寛容書簡を使って、それ以前に書かれた『寛容についての手紙』や『人間知性論』を理解しようとする著者の方法論のことである。著者の「ロックが体系的な思想家である」という主張がロックの「認識論や政治哲学が寛容についての問題に含意があることを、彼が自覚しており、また利用しようとしている」(8頁)1 ということを意味しているのであれば、この方法論はさほど問題にならないだろう。また、ロックの「後の寛容書簡は、すなわち、『寛容についての手紙』の議論を補足する」(38頁)2 という主張であるのであれば、これも特に問題はないだろう。しかし、著者は本書のその他の場所では『統治二論』、『寛容についての手紙』、『人間知性論』の3つに限定した著作の間の関係を読み解く方法として上記の方法論を掲げており、そうした文脈であるのであればもっと慎重になる必要があると思われる。つまり、これは過去のある時点ではなかった一貫性を見出してしまうおそれがあるからである。
もちろん、(たとえば)『寛容についての手紙』と後の寛容書簡との間では理論的な変化がなく、機会が与えられたからこそ、ロックは『寛容についての手紙』の前提をより明確にし、説明することができた、という見方もできなくはない。ただ、この時点までのロックが、著者自身指摘しているように、前期から中期にかけて寛容の問題について方向転換したことや、また『人間知性論』や『統治二論』も出版後修正を加えていったことに鑑みれば、この3作品の間の一貫性ということに拘らず、「ロック思想の変遷」と「一貫性を目指す努力をするロック」という設定のほうが無難だったかもしれない。(無論、3つの作品がそれぞれ修正・明確化されていったという意味で、共時的ではなく通時的な観点からこの3つの作品の一貫性を見ているということもできるが、であれば、なおさらこれは単にロック思想の変遷とも言い換えることができるのではないだろうか)。
上の議論が本書の危うさについてだとすると、つぎに物足りなさという観点から少し見てみたい。この観点からまず気になったことは、本書においてカバーされている先行研究の範囲である。まず本書の主張に戻ってみると、著者は、今日のロック研究が学問領域によって分断されている、と指摘している。たしかに、そうした現状はあると評者も考える。そして、まさにこうした隔たりを埋めるべき、奇しくも本書の出版と重なるように、哲学者と政治理論家をつなげようとする John Locke Society 3 が国際展開しはじめたのである。しかし、ひょっとしたら哲学者にとってこの分断あるいは孤立はもっと著しく感じられているのかもしれないが、政治理論家の立場から政治理論の研究を見ると、著者が認めているより、もう少しロックの哲学と政治理論との間につながりを見出そうとする研究はあるように思われる。たとえばHarris 1998がその一例であるが、これは関連するところにおいて本書では参照されていない。またGrant 1987やCasson 2011なども本書の趣旨とは少し違うかもしれないが、いずれにしてもロックの哲学と政治理論をつなげているという意味では挙げられてもよいと思われる。
先行研究の調査範囲の狭さにあわせていうと、印象として本書で参照される政治理論側の最近の研究がやや少なく感じた。たとえば第9章の自然法にかんする議論の欠如の問題では、Harris 2013(またHarris 2002)に言及がなく、評者としては多少不満が残る。(本書が出版された2016年から逆算して、原稿ができあがっていたであろう時期を推測してみると、もしかしたらまだこの研究は出版されていなかったのかもしれないが、出版まで3年あれば言及することぐらいはできたように思われる)。
最後に、本書の分析的な側面からの物足りなさについて言及したい。上でも述べたが、本書の各章では、それぞれロックの思想におけるパズルが取り上げられ、それぞれそれなりに説得力がある議論がされている。ただ、本書の目的がロックの体系性を示すことであることを改めて考えると、少しその観点からは物足りなさを感じた。本書のNuovo 2017による書評に指摘されていることだが、ロックの3つの作品を結ぶキーワードとして挙げられている宗教的寛容はあくまで「テーマ的」(thematic)なつながりであるように思われる。これは、ロックの3つ作品が理論的にどう結びついているのか、という問題とは別である。Nuovo自身は「道徳」(morality)という言葉でこのつながりを説明しているが、これは著者のJolley自身が認めているロックのもうひとつの関心事である、自然法と関連することである。たしかに本書の第9章は、自然法にかんする議論だが、この章からは、自然法があくまでもひとつのつなぎでしかなく、ロックの思想世界をまとめる要であるというような印象は受けない。
またこの問題と関連していえることは、本書のそれぞれの章がややケーススタディ的な傾向があり、理論構造的な観点からロックの思想世界が全体としてどうまとまっているのか、本書を読んで理解がさほど深まらなかった。
このようにやや批判的に本書を評価してきたが、さまざまな側面において新たな視点を提供してくれる刺激的な本であったことは間違いなく、ロックの哲学を専門にする研究者であれ、ロックの政治理論を専門にする研究者であれ、一読してほしい本のひとつである。
註
- ^ 原文は以下のとおりである。Locke ‘is systematic in the sense that he is aware of, and seeks to exploit, the implications of his theories in epistemology and political philosophy for the issue of toleration’.
- ^ 原文は以下のとおりである。‘Locke’s later letters for toleration thus supplement the arguments of the Epistola’.
- ^ 本ソサエティーについては、https://thejohnlockesociety.com/about を参照。
参考文献
- Casson, Douglas John. 2011. Liberating Judgment. Princeton: Princeton University Press.
- Grant, Ruth. 1987. John Locke’s Liberalism. Chicago: The University of Chicago Press.
- Harris, Ian. 1998. The Mind of John Locke. Cambridge: Cambridge University Press.
- Harris, Ian. 2002. ‘Tolérance, église et état chez Locke’, in eds. Yves Charles Zarka, Franck Lessay, John Rogers, Les fondements philosophiques de la tolérance en France et en Angleterre au xviie siècle, vol. 1. Paris: Presses Universitaires de France, pp. 175-218.
- Harris, Ian. 2013. ‘John Locke and Natural Law: Free Worship and Toleration’, in eds. Jon Parkin and Timothy Stanton, Natural Law and Toleration in the Early Enlightenment (Proceedings of the British Academy 186). Oxford: The British Academy, pp. 59-105.
- Nuovo, Victor. 2017. Review of Toleration and Understanding in Locke, Notre Dame Philosophical Reviews (Available at: https://ndpr.nd.edu/news/toleration-and-understanding-in-locke).
- Waldron, Jeremy. 1991. ‘Locke: Toleration and the Rationality of Persecution’, in eds. John Horton and Susan Mendus, John Locke: A Letter Concerning Toleration in Focus. London and New York: Routledge, pp. 98-124.