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2019年11月1日

書評 Klosko 2019, Why Should We Obey the Law? (小城拓理)


George Klosko, Why Should We Obey the Law? (Polity, 2019)1

小城拓理 (愛知学院大学)

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1. はじめに

 なぜ人間は統治に従わなければならないのか。これは統治への服従義務、すなわち政治的責務(political obligation)の根拠を問うものである。現在、これは政治的責務論の問題として知られている。政治的責務という語そのものの歴史は浅いが、この問い自体は歴史のあるものである2。その典型は既にプラトンの『クリトン』の中に見出すことができよう。また、これはソフォクレスの『アンティゴネー』といった文芸作品でも重要なテーマとなっている。シモンズによると、この問題をめぐる議論は17世紀を頂点に盛り上がったものの、18世紀以降は一度後景に退いたという。しかし、この問いは1950年代以降再び脚光を浴びるようになった。その背景にはベトナム戦争や公民権運動がある。明らかに統治が不正なことをしているにもかかわらず、なにゆえ国民はそれに服従しなければならないのか。こうした疑問が再び研究者をして政治的責務の問題に向かわせることとなったのだ3。もちろん、この問題はアメリカに限られるものではない。冷戦終結後の各国のナショナリズムの高まり、そして頻発する内戦の数々もまた統治と人間とを繋ぐ政治的責務について再考を迫る問題であった4。さらに、環境問題や南北問題といった国境を超えたグローバルな問題が現れてくる中で、今まさに国家の存在理由が問われているのである5。このように政治的責務論は古くて新しい問題であり、その議論は現在極めて多岐に渡っている6

 今日、様々な主張が展開されている政治的責務論であるが、ここでシモンズによる分析枠組みを援用することで、論争状況を整理してみよう。シモンズによると、そもそも人間が守るべき義務というものは二つの軸、すなわち、その義務が意図的な行為(voluntary act)によって発生するかどうかという軸とその義務を果たすべき対象が一般的(general)か個別的(special)かの軸によって四つに大別できるという。つまり、意図的で一般的なもの、意図的で個別的なもの、非意図的で一般的なもの、そして非意図的で個別的なものの四つである。しかし、このうち一つ目の種類の義務は存在しないので、義務には大きく分けて三種類あることになる7。以上を踏まえて、評者なりに表にまとめてみよう。



そして、シモンズは統治への服従義務の正当化の理論は上記の三種類に整理できるとする。まず、統治への服従義務を意図的で個別的な義務と捉える①の立場である。後述するが、この代表がロックの同意論である。次に、統治への服従義務を非意図的で一般的な義務と捉える②の立場である。この代表が本書評で取り上げるクロスコのフェアプレイ原理である。本書評では長年政治的責務論の問題に取り組んできたクロスコの最新作Why Should We Obey the Law?の内容を紹介した上で、評者のコメントを付していきたい8


2. 本書の内容紹介

 本書は序章を含めて五章から成る。ここからは各章ごとの内容をまとめていこう。まず、Introductionでは本書の問題が提示される。その問題とは、なぜ人間は統治に服従すべきなのかという統治への服従義務、すなわち政治的責務の正当化根拠を問うものである。クロスコは、この問題に対する答えに関して研究者は一致していないものの、政治的責務論が満たすべき条件に関しては一致していると言う。その条件は三つある。第一に一般性要件である。これはその国の住民全員もしくはほとんど全員の政治的責務を説明せねばならないというものである。第二に特別性要件である。これは住民の自国の統治への政治的責務を説明しなければならないというものである。第三に全般性要件である。これはその国の全ての法への住民の服従義務を説明せねばならないというものである。そして、クロスコは本書ではアナーキストの主張を拒絶し、国家を正当化すると宣言する。

 続く第二章Consent Theoryでまず取り上げられるのがロックの同意論である。クロスコは、ロックが『統治二論』第二篇で展開した同意論を紹介しつつ、その長所と短所を見定めようとする。クロスコは以下のようにまとめている。ロックによると人間は生来自由である。そして、人間は最初統治の無い自然状態にいる。自然状態は自然法があるので比較的平和であるが、統治が無いので不安定である。そこで、人間は同意によって統治を設立し、社会の多数者に拘束されるようになる。そして、クロスコは言う。ロックの理論の長所は明らかである。まず直観的に見て明晰である。また、人間は自然状態を離れて多数者に拘束されることに同意するので、多数者が決定することに服従する義務を負うことになる。これは全般性要件を満たしている。

 だが、クロスコはロックの同意論の短所も指摘する。それは、明示的に同意して成員になるのはせいぜい国籍を取得しようとする外国人だけだという点である。そして、この欠点に気付いていたが故に、ロックは暗黙の同意も導入している。暗黙の同意とは領域内で居住することから導出される同意のことである。しかし、シモンズが言うように暗黙の同意には問題がある。移民はともかく、国内で生まれ育ち、居住し続けることが同意になるとどれくらいの人が知っているだろうか。また、同意しないことの証として国を離れることには大きなコストもかかる。ここでクロスコは、ヒュームの「原始契約について」(1748)における有名な一節を引いている。

外国語やそこの生活様式を知らず、わずかな賃金でその日暮しをしている貧乏な農民や職人が出国する自由な選択肢を持っているなどとまじめに言えるだろうか。これは眠っている間に船に乗せられ、船から離脱すればたちまち海に落ち込み死んでしまうのだから、船にいることそれ自体で、船長の支配に自由に同意したのだと主張するのと同じである。

ここでヒュームは、ロックを念頭に置いて、暗黙の同意を統治下での居住の事実から導出することを批判している。クロスコはヒュームの同意論批判を首肯できるものとしている。

 だが、この暗黙の同意の難点を克服すべく、居住以外の行為を同意の表明と捉える研究者もいる。例えば投票という行為である。プラムナッツやシンガーがこうした主張をしている。これは投票とゲームのアナロジーに基づく。例えば、チェスをする人はチェスをすることでチェスのルールに従うことに同意している。同じように選挙で投票する人は統治に服従することに同意しているのだというわけである。ところが、このアナロジーはうまくいかないとクロスコは断じる。そもそも、選挙では投票しない人が多い。投票しない人は政治的責務を負わないのだろうか。また、投票する人は、投票することで統治に従うことに同意することになると知っているだろうか。いずれも考えられないことである。

 確かに、クロスコから見ても同意論は魅力的である。それでも、この同意論は現代の国家のほとんど全ての市民には当てはまらない。従って、全ての市民の服従義務を説明するという一般性要件を同意論は満たさない以上、政治的責務論としては受け容れ難いとクロスコは結論付ける。

 なお、クロスコは、暗黙の同意の問題に対処するために仮説的同意論を持ち出す研究者にも触れている。仮説的同意論とは、ある国の状況が、その国の法に服従することに同意できるようなものであるならば、この仮説的同意によって政治的責務が基礎づけられるという理論のことである。この主張の代表がウォルドロンである。しかし、ここでクロスコは仮説的同意論に対するドゥオーキンの批判、すなわち、同意は実際になされて初めて拘束力を持つという批判を紹介し、仮説的同意論を退けている。

 最後に、クロスコは以下のように述べている。近年では政治的責務論が満たすべき条件が厳しすぎるので、成功する政治的責務論は存在しないという主張が有力である。例えばシモンズがそうである。だが、こうした主張は「成功」という言葉で何を意味しているかによるだろう。クロスコによると、伝統的な基準を問い直し、改訂することで、我々は成功とみなしてもよい理論を作成できるはずだという。

 第三章The Principle of Fair Playでは、次の政治的責務論として帰結主義が取り上げられる。帰結主義による政治的責務の説明はプラトンの『クリトン』に既に見られるものである。この中で擬人化されたアテナイの法は、ソクラテスの脱獄は国家を破壊するものだと主張している。クロスコは帰結主義に否定的である。というのも、帰結主義の場合、ごく少数の人間による法の違反が、全ての人間が法を守る場合よりもよい結果をもたらすことがあるからだ。例えば、脱税をした人間が浮いた金で家族や友人に贅沢なプレゼントをすれば、社会全体の功利は増すことになるだろう。しかし、それでも我々は、脱税は不正であり、不公正なことだと感じるはずだ。こうしてクロスコは帰結主義を退ける。

 そして、次に取り上げるフェアプレイ原理(principle of fair play)こそ、クロスコが最も有望だとする政治的責務論である。クロスコは、フェアプレイ原理が同意論や帰結主義よりも見込みのある政治的責務の基礎であり、この原理によって、全てないしほとんど全ての住民の政治的責務が説明できると主張する。さて、そもそもフェアプレイ原理は最初ハートによって定式化されたものである。クロスコはハートの「自然権は存在するか」(1955)における以下の箇所を引用する。

多数の人々が一定のルールに従って共同の企てを遂行し、各自の自由を制限している場合、この制限に服する人々は、もし必要とあれば、自分たちがルールに服することから利益を享受した者に対し、自分たちと同様のルールの遵守を要求する権利を持つ。
フェアプレイ原理によると、もし人々が協同の企てから利益を受け取るなら、それを受け取るためには応分の責務を果たさなければならない。そして、社会とはその成員が利益を産みだしたり、受け取ったりする協同の企てである。従って、ここから利益を享受する者は、応分の負担を果たさなければならないということになる。

 だが、このフェアプレイ原理に対しては『アナーキー・国家・ユートピア』(1974)におけるノージックの批判がある。クロスコはノージックの批判を以下の思考実験を用いてまとめ直している。アンの近所の人たちがラジオの公共放送番組を立ち上げたとしよう。これは音楽などを放送するもので、近所の人たちが毎日交代で放送を担当している。アンはこの番組を楽しんでいる。さて、アンはこの放送を担当する義務を負うだろうか。これに対してノージックは否と答える。なぜなら、アンはそもそもこの番組の設立に関わっていないからである。つまり、単なる利益の享受だけでは、人間に義務を負わせられないとノージックは主張しているのである。

 しかし、クロスコから見るとノージックの批判は誤りである。というのも、社会という協同の企ては、音楽などではなく、例えば国防による平和という極めて重要な利益を産みだしているからである。この利益は人間の生存に不可欠であり、みなが求めるものである。従って、応分の負担を果たさずに利益だけを享受する者はフリーライドをしている。そして、国民は誰もが国防により平和という利益を享受している以上、政治的責務を負う。こうして、フェアプレイ原理では同意論では満たせなかった一般性要件を満たすことができるのである。

 では、利益と負担はどのように配分されるべきなのであろうか。ここで重要なのが民主主義である。なぜなら、もし人々がある決定に従うことが道徳的に求められているのなら、それらを決定するプロセスに公正な発言権を有していなければならないからだ。ただ、民主主義それ自体が政治的責務を基礎づけるわけではないことに注意しなければならない。民主主義は責務の内容を決定するのに資するだけなのである。

 第四章Multiple-Principle Theoryは本書で最も長い章である。この章の冒頭でクロスコはフェアプレイ原理には弱点があることを認める。それは、後述するが、フェアプレイ原理では全般性要件を満たせないことである。この弱点を克服するためにクロスコが提案するのがフェアプレイ原理を他の道徳原理で補強すること、すなわち複合原理理論(“multiple-principle” theory)による解決である。クロスコによると、これまでの政治的責務論の研究者たちは一つの理論によって政治的責務を正当化することに固執してきた。だが、ある理論を採用することが他の理論を排除するわけではない。もっと柔軟になり、複数の理論でもって政治的責務を正当化しようとクロスコは述べる。

 さて、クロスコは、フェアプレイ原理で説明できないある義務を挙げている。それは、福祉国家を維持するために必要な義務、例えば納税などの義務である。そもそも、フェアプレイ原理は自己利益に基づいている。というのも、自分が利益を享受する場合は応分の義務を果たせというのがフェアプレイ原理の要諦だからだ。だが、福祉国家によって利益を得るのは貧しい人や病人、そして障害者であって、住民全員というわけではない。では、クロスコは福祉国家を維持するために必要な義務をどのように説明するのだろうか。実は、クロスコは、この義務がフェアプレイ原理によっては正当化できないことを認める。その上でクロスコは相互援助義務(duties of mutual aid)というものを導入することで正当化しようとする。相互援助義務とは、何らかの事情によって困窮している他者を援助する義務を意味する。クロスコによると、この義務が普遍的な万民の義務であることは明らかである。クロスコはこの相互援助義務によって、フェアプレイ原理によっては正当化できない福祉国家を維持するために必要な義務をカバーしようとするのである。

 では、フェアプレイ原理と相互援助義務は特別性要件を満たせるであろうか。この疑問に対してクロスコは可能だと答える。まず、フェアプレイ原理の場合、自分が享受する利益は同じ国に属する同胞の負担によって生み出されたものである。従って住民は自分が属する国に対する服従義務を負う。では、相互援助義務の場合はどうか。ここでクロスコは前述した民主主義の重要性を想起せよと言う。民主主義は、市民が参加する権利を持つだけでは実現しない。参加するための一定の資源、例えば金や余暇、そして教育の機会を市民に保障しない限り、市民が公正に扱われたことにはならない。従って、我々は他国の市民ではなく、自国の民主主義の下にある同国の市民に対してまず援助する特別な義務を有するのである。こうして複合原理理論は全般性要件と特別性要件双方を満たすことができるとクロスコは述べる。

 では、一般性要件に関してはどうだろうか。ここでクロスコはアナーキストの存在を想定する。すなわち、自分の能力に強い自信を持ち、国家の介入を拒絶する個人である。このようなアナーキストは国家からの離脱を主張するかもしれない。もちろん、離脱を認めることは一般性要件に抵触してしまう。これに対してクロスコは言う。そもそも、このアナーキストは事実認識を誤っている。というのも、このアナーキストが自負している能力は、他者との関わりの中で育まれてきたものだからである。つまり、人間の能力は社会という枠組みの中で初めて形成されるのだ。従って、このアナーキストの主張はこうした事実を無視するものなので受け容れられないのである。

 第五章Limits of Political Obligationでは、まず政治的責務が一応の責務(prima facie obligations)でしかないことが述べられる。従って、道徳的に見て不正な統治への政治的責務は生じない。では、統治が不正なことをしている場合我々はどうすればよいのか。一つには市民的不服従という対応がある。市民的不服従とは、ある法が不正だと自身が判断した場合、その改正を促すべく意図的にそれに対する不服従を平和的に表明した上で、不服従による刑罰を甘受するという抗議の一方法である。アメリカ史における市民的不服従の代表的な例がキング牧師によるものである。だが、市民的不服従は統治が概ね正義に適っていることを前提としている。では、もし統治のなすこと全てが不正である場合はどうすればよいのだろうか。ロックが言うように、統治に対して抵抗してもよいのだろうか。いずれにせよ、統治が政治的責務を失うほど不正になっているかどうかを判断するのは非常に難しい問題である。この問題も政治的責務論における重要な問題だと指摘した上で、クロスコは筆を擱いている。


3. 本書へのコメント

 本書は、政治的責務論を主題としたクロスコの三冊目の単著にして最新作である。クロスコは1980年代の終わり頃からこの問題について数多くの論考を著してきた。もともとクロスコはロックの同意論批判を皮切りに、その後フェアプレイ原理の主張を打ち出した。だが、2000年代に入ると自身の立場を修正し、フェアプレイ原理と相互援助義務との複合原理理論を提示するようになった。このような彼自身の理論的展開は、本書の目次構成と軌を一にしている。その意味では、本書はクロスコの政治的責務論研究を総括するものと言ってよいだろう。

 さて、評者は本書を一読して以下三つの疑問を持った。第一に、なぜクロスコは福祉国家への服従義務を正当化しようとするのだろうか。これはクロスコの前提に対する疑問である。先述のように、クロスコは当初はフェアプレイ原理によって政治的責務を正当化しようとしていた。ところが、それでは全般性要件が満たせない、つまり福祉国家を維持するために必要な義務が説明できないので、クロスコはフェアプレイ原理に相互援助義務を接合したのであった。だが、そもそもなぜ福祉国家でなければならなかったのだろうか。この点に関してクロスコ自身は多くを語らない。彼はただ、統治が国民の福祉を守るのは「なじみ深い政治的直観(familiar political intuitions)」(p.88.)だと記すだけである。この直観が本当になじみ深いものであるかはひとまず措こう。ここで指摘しなければならないのは、福祉国家を前提にしたことで、クロスコは本来直面する必要のなかった課題と向かい合わねばならなくなったということである。というのも、もし最初からノージック流の最小国家を想定していれば、フェアプレイ原理だけで、一般性要件と特別性要件、そして全般性要件全てを満たす形で政治的責務は導けたはずだからである。つまり、生命、自由、財産の保護は全ての人間が望むものなのだから、それを提供する最小国家への服従義務はフェアプレイ原理だけで説明できたはずだった。にもかかわらず、クロスコは最小国家ではなく、福祉国家を想定してしまったために、クリアすべきハードルを自ら上げてしまった。そして、こうすることで、詳しくは後述するが、クロスコの複合原理理論は政治的責務論としては最終的に失敗しているように思われる。

 第二に、複合原理理論を構成するフェアプレイ原理は本当に特別性要件を満たせるのだろうか。ここでは、クロスコがしばしば言及する国防による平和という利益を例に検討しよう。クロスコによると、この利益は人間の生存に不可欠な利益なので、誰もが享受することを望むものである。そして、国防が住民の負担によって支えられている以上、応分の負担を果たさずに平和という利益を享受する者はフリーライダーである。従って、国民はみなこの利益を提供する統治への服従義務を負う。だが、ここでクロスコはある可能性を見落としている。それは、国防による平和という利益を提供するのはその国の統治だけではない可能性である。例えば、日本の平和が在日アメリカ軍によって保たれているとしよう。この場合、日本国民は日本の統治だけでなく、アメリカの統治にも服従義務を負うことにならないだろうか。なぜなら、アメリカ軍がアメリカ人の負担によって維持されている場合、それにフリーライドすることは許されないからである。しかし、だとすると日本国民はアメリカの統治への服従義務も負うことになる。つまり、フェアプレイ原理では特別性要件は満たせないのである。

 第三に、複合原理を構成するもう一つの相互援助義務も本当に特別性要件を満たせるのであろうか。前述のように、クロスコは民主主義への参加のためには一定の資源、例えば金や余暇、そして教育の機会が必要であり、それを自国に属する他の成員に優先的に保障する必要性から特別性要件を説明していた。ここでクロスコの言を引いておこう。

全ての市民がこのような資源を持たない限り、彼らは貢献することを要求されている協同の枠組みにおいて不公正に扱われているのである。従って、我々は、他国の住民には当てはまらない、自国の同胞である市民に対する特別な正義の要求を認めなければならない(p.82.)。

要するに、人間は自分と同じ民主主義の体制下にいる人間を優先的に援助しなければならないということであろう。逆に言えば、同じ民主主義の体制下にいる人間に援助を与えないことは彼らに対して不公正な扱いをしているということになる。しかし、この議論には問題がある。というのも、クロスコはこの箇所で相互援助義務の対象を自国の人間に限定するに際して、明らかにフェアプレイ原理に訴えているからだ。つまり、クロスコは福祉国家を維持する義務を、結局は相互援助義務ではなく、フェアプレイ原理によって正当化している。ところが、前述のように、フェアプレイ原理では特別性要件が満たせない。従って、クロスコの複合原理理論は政治的責務論として成功していないのではないだろうか。そして、この失敗は、私見では、クロスコ自身が政治的責務を正当化すべき国家を福祉国家にしたことによるのである。

 以上、評者はクロスコに批判的なコメントを記してきた。しかし、本書は政治的責務論の見取り図を得るだけでなく、この研究の第一人者であるクロスコ自身の主張を知るためにも極めて有益である。その意味では、本書は政治的責務論を研究する上での必読文献と言えるのではないだろうか。


 ※ 本研究はJSPS科研費19K12941と19H01203の助成を受けたものです。


  1. ^ 本書評の一部は拙著『ロック倫理学の再生』と既発表「フィルマーの契約論批判の射程」(第43回日本イギリス哲学会研究大会シンポジウム「甦るフィルマー 近代社会哲学の源流再考」[2019])の一部を下敷きにしている。
  2. ^ 「政治的責務」(political obligation)という語を初めて用いたのはトマス・ヒル・グリーンだという。Dagger and Lefkowitz, p.2; Horton, 2010, p.1; 鈴木、p.10.
  3. ^ Simmons, 2002, pp.21-22
  4. ^ Horton, 2010, pp.4-5.
  5. ^ 瀧川、pp.1-3.
  6. ^ 政治的責務論については以下が簡便な見取り図を提供してくれるだろう。Hampton, pp.3-38; Simmons, 2002, pp.17-37; Simmons, 2008, pp.39-66; Dagger and Lefkowitz, pp.1-29; Klosko, 2012, pp.511-526.
  7. ^ Simmons, 2002, pp.27-29; Wellman and Simmons, 2005, pp.108-109; Simmons, 2008, pp.43-44.
  8. ^ 本書においてクロスコは③の主張を取り上げない。

参考文献
  • Dagger and Lefkowitz. “Political Obligation”, in Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2014.
  • Hampton, Jean. Political Philosophy, Westviewpress, 1997.
  • Horton, John. Political Obligation, second edition, Palgrave Macmillan, 2010.
  • Klosko, George. “The Moral Obligation to Obey the Law” in The Routledge Companion to Philosophy of Law, ed., Andrei Marmor, Routledge, 2012.
  • Simmons A. John. “Political Obligation and Authority”, in The Blackwell Guide to Social and Political Philosophy, Blackwell, 2002.
  • ――. Political Philosophy, Oxford University Press, 2008.
  • Wellman and Simmons, Is There a Duty to Obey the Law?, Cambridge University Press, 2005.
  • 小城拓理『ロック倫理学の再生』晃洋書房、2017.
  • 鈴木正彦『リベラリズムと市民的不服従』慶應義塾大学出版会、2008.
  • 瀧川裕英『国家の哲学』東京大学出版会、2017.