About

ようこそ、イングランド啓蒙研究会のウェブサイトへ

ようこそ、イングランド啓蒙研究会のウェブサイトへ。 このウェブサイトは、17世紀イングランド発祥の啓蒙思想の研究および、この啓蒙運動のヨーロッパ/北米/日本への伝播・発展についての研究を促進し、広く発信することを目的としています。 従来の哲学/政治学/経済学/宗教思想とい...

2025年7月20日

第39回研究会の報告(合評会 竹中真也『バークリ 記号と精神の哲学』)

 

第39回研究会の報告

合評会 竹中真也『バークリ 記号と精神の哲学』(知泉書館、2024年) 

 

2025年 6月28日(土) 中央大学後楽園キャンパス

 

 当研究会メンバー竹中真也の近著『バークリ 記号と精神の哲学』(知泉書館、2024年) について、まず著者自身が要点を述べたあと、同じくメンバーの中野安章と青木滋之が詳細な批評を加えたうえで、参加者全員で本書の意義について議論した。メンバー以外の参加者もあり、活発な討論ができた。 

 

 著者の竹中によれば、本書のねらいは、ジョージ・バークリの哲学的全体像を、記号理論を軸に再構成することであり、彼をロックとヒュームの「中継ぎ」ではなく、独自の哲学的貢献をなしたキリスト教的プラトン主義者として読み直すことである。

 そのさい注目すべきは、バークリの記号論の独自性である。 彼は言語を、ある観念によって別の観念を「代理する」(represent)こととして、さらには代理をつうじて「示唆する」(suggest)こととして理解する(e.g. 視覚が触覚を示唆)。同様に観念は、精神の状態を代わりに表現する記号である。このような記号論にもとづいて、バークリは「意味の観念説」「意味の情緒説」「意味の思念説」を展開する。

 感覚には現れない対象の「内的構造」もまた、バークリにとっては記号的観念である。こうして粒子やエーテルといった自然学的対象を記号的に扱うことが可能になる。「感覚的観念」(物体的)、「数学的仮説」(力学的)、「精神的活動」(形而上学的)の三層の原因の考察をつうじて、バークリは自然学から形而上学へと進む。人間の精神においては、受動的な観念が能動的な精神と対比されるが、しかし同時に彼は精神の受動性(観念の無意識的な現実化)についても論じている。他方で神の精神においては、自然世界は神の精神が発する言語ないし記号として表象される。こうしてバークリは、人間精神と神の精神との同型性を、そして世界と魂との一致を、マクロコスモスとミクロコスモスのアナロジーによって提示する。

 竹中はブラダタンをも参照しつつ、バークリの記号理論がキリスト教的プラトン主義の三つの特徴をもつと結論づける。(1)神の似姿としての人間、(2)原型と模造、(3)イデアを表現する liber mundi(自然という書物)。さらに結論部では、竹中は『人知原理論』幻の第二部(倫理学)の輪郭づけを試みている。

 

  評者の中野は、竹中『バークリ』を高く評価し、あえて名越悦 『バークリ研究 非物質論の課題とその本質』(刀江書院、1965年)以来の日本語による「本格的バークリ研究」として位置づけた。

 中野によれば、本書の画期性は、キリスト教的プラトン主義と記号理論という二つの視点を交差させた点にある。先行研究、とくに(バークリ全集編者の)ルースとジェサップが定着させたパラダイムにおいては、ロックの影響が前提とされ、バークリの独自性は経験主義マイナス物質(それが懐疑主義の源泉なので)により常識を擁護したことに還元された。もっともルース=ジェサップ・パラダイムはいまや主流ではないが、しかし竹中は従来の解釈を批判するだけではなく、これに「プラトン主義」的解釈を対置したのである。

 竹中がバークリを経験主義者ではないとしたにもかかわらず、ある意味では「徹底的経験主義者」だと規定した点に、中野は着目する。プラトン流の「想起説」に通じるやりかたで生得思念説を擁護した点で、バークリはロック流の経験主義とは明らかに一線を画す。しかし竹中によれば、バークリは「思念」をもっとも「実在的」なものとして、原因や原理として、かつ「知性的で不変な存在者」として提示するに至るのである。その一方で中野は、バークリーの思念説が「内省」という出発点からどういう筋道をへて「生得的思念」に至るのかを、ロックとの対比においてより丁寧に論じていく必要があったと述べ、その観点からいくつかの指摘をおこなった。

 中野はまた、キリスト教的プラトン主義者バークリという位置づけについても、多くの面で竹中の読解に賛同しつつ、若干の留保を示した。たとえば、バークリの「世界=書物」論がプラトン主義の要素として解釈できるかどうかは議論の余地がある。中世のキリスト教的プラトン主義では「神の似姿」論と「世界=書物」論が融合していたが、しかしたとえばベーコンは「世界=書物」から「神の似姿」に到達する可能性を明確に否定していた。こうした思想史的背景をふまえつつ、バークリにおける「世界=書物」論と「神の似姿」論との関係をさらに検討する必要はあるかもしれない。

 

 もう一人の評者の青木は、竹中の研究成果をふまえて哲学史の書きなおしが必要だろうと示唆しつつ、いくつかの疑問を投げかけた。第一に、バークリのいう抽象一般観念なしでの観念の「代理」が実際には可能なのかどうか、という問いである。彼が「内包」という言葉を使うとき、それは抽象一般観念を適用することと何が違うのか。この問いに対して竹中は、観念の普遍化を代理作用=精神の能動的作用として捉えようとするのがバークリの特徴的な思考様式であることを説明した。第二に、粒子説を記号関係に還元できるのか、粒子説を採り入れながらどうして因果説を否定できるのかを青木は問いかけた。竹中は、観念の連鎖についてのバークリの議論がこの疑問を解くカギになることについて説明した。

 

 上記のほかにも、参加者からさまざまな問いやコメントが寄せられた。この日の活発な討論が、竹中『バークリ 記号と精神の哲学』の成果を物語っている。

 

 

  

2025年7月13日

第38回研究会の報告(講演会 田口卓臣)

 

第38回研究会の報告

講演会 「啓蒙」の複雑性と逸脱性を考えるために

ディドロ『ダランベールの夢』における「補遺」と〈フィクション化〉を読む

田口卓臣(中央大学文学部)  

 

2025年 4月12日(土) 中央大学多摩キャンパス

 

 この日の講演で田口さんは、ディドロを題材に、「啓蒙」を「画一的・目的論的な解釈図式から常にすでに逃れ去る思想運動」として捉える試みを提示してくださった。約20名が参加し、講演のあとにはたいへん活気ある質疑応答がおこなわれた。啓発的かつスリリングな田口さんの講演の概要は、次のとおりである。 



 講演の趣旨は、後期ディドロの代表作『ダランベールの夢』を取り上げ、フィクションを介して「哲学」を語るというその複雑な方法に着目することで、同書を「啓蒙」の複数性と逸脱性を物語る恰好の事例として示すことであった。

 単数形の「光=啓蒙」(lumière)――神の啓示や超自然的認識など、目的論的で単線的な――との対比で、18世紀のフィロゾフは複数形の「光=啓蒙」(lumières)にシフトしていったが、そこにはいわば光の屈折や乱反射もあった。そのような「啓蒙=光」の複雑さや逸脱性をきわめてよく表現したのがディドロである。

 ディドロは啓蒙を、自己自身と他者との双方の変容を同時に引き起こす場をつくりだすこととして実践した。それを浮かび上がらせるためには、彼がダランベールと編集した『百科全書』において「理性」だけではなく「想像力」「記憶」が重視されている点や、同書編集における「補遺」という方法――彼は不満の残る記事に編集者権限で介入し、時にとんでもなく長い「補遺」をつけたした――などに見られる。

 とくに注目すべきは、フィクションを介して哲学を語るという方法である。一例として、ブーガンヴィルはタヒチ航海記の「補遺」をフィクションとして書くことで、自然人の名を借りたヨーロッパ文明の批判をパロディ的に再演し、その行為自身のヨーロッパ的性質を浮かび上がらせた。

 そのようなフィクションの効果に着目して『ダランベールの夢』を読んでみる。同書は「存在の連鎖」論や「物質=運動」説(古典力学)を解体し、たとえば石にも感性があると語る(物質の運動への傾き)。分子(molécule)を流体(fluides)として捉え(分子の衝突による化学的変容への着目)、分割不能の一個体としての原子(atome)概念を批判する。そのかわりにディドロは、一なる全体=大きな個体を置く。このような思考を、彼はメタファーによるアナロジーの連鎖をつうじて推し進めていく。

 以上をふまえて言えることとして、次のような観点をとることが啓蒙研究において重要である。

 1 思想どうしの衝突をつうじた「化学的」変容に注目する。
 2 言表行為(écriture, énonciation)の効果を読む。
 3 「理性にもとづく理論の体系化」から逸脱する諸要素を読む。
 4 自己形成(formation de soi)の別様の可能性を探る(ドイツ教養小説の前史としての
仏フィロゾフの文学作品)。


 田口さんの講演は、大要、このようなものであった。とはいえ、これでは田口さんのお話の面白さがほとんど伝えられていない。

 しかしたいへんありがたいことに、田口さん自身が講演録の公刊を準備されている。 田口さんに心より感謝を申し上げるとともに、講演録を活字で読める日を楽しみに待ちたい。